コトノハの唄

□胡蝶夢奇譚
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昔者荘周夢為胡蝶。
栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。
不知周也。
俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。
此之謂物化。


《訳》昔、荘周は夢で蝶になった。
ひらひらとして胡蝶そのものであった。
自然と楽しくなり、気持ちはのびのびとした事だった。
自分が荘周であることは分からなくなっていた。
俄かに目覚めると、なんと自分は荘周だった。
荘周の夢で胡蝶になったのか、蝶の夢で荘周になったかは分からない。
然し、荘周と胡蝶とには区別がある筈である。
こういうのを「物化」というのである。










**

蝶。

胡蝶。
蝶々。
かわひらこ。

それは美しい翅を持つ昆虫。
この翅は鱗紛と鱗毛により美しい色彩を現し、一対のこん棒状または杓子状の触覚を具えるもの。
※蛾と見分ける方法に触覚の形がある。

またこの昆虫は昆虫網チョウ目の蛾以外のものを指し、南極大陸を除く広く陸上環境に分布するもの。

世界では種が多く、この日本だけで約250種を越えるものがいる。

広い分布域を持つものもいれば、地域特有の環境でしか生きられないものもいる。

その美しさ故に『昆虫採取』なるものでは最も愛された昆虫であろう。





「胡蝶夢奇譚」





「どうしたんだよ、急に蝶の話なんかして」

高いはかなげな声が響く。

ゆらゆらと揺れる白い煙り。

声と共に流れていくのだ。

それは棚引く雲の様に、糸車で紡がれる真綿の糸の様に長く果てなく続いている。

蝶があしらわれた壁の部屋には、狐火がランプの中でゆらゆらと炎を揺らす。

畳の青に横たわるは赤い絹衣。
青白い脚が投げ出されている。
赤い中に横たわるは白い美しい躯。

紫の帯が解け散らばるのは、なまめかしい妖しい花か。

「荘子斉物論の話だ、夢に胡蝶となるともいう、夢見鳥、胡蝶の夢の百年目」

流れる白煙の元、赤い衣の中、白に黒い月の柄の着物を纏いし者は答えた。

「何が言いたい」

横たわる赤い衣のものは、蒼と日に当たれば金色の目になる茶色の対の瞳を向けた。

妖艶で中性的な顔立ち。
艶かな黒髪は、なまめかしいその顔立ちに良く似合う。
この女性とも見紛う彼はゆっくりと三味線を爪弾く事もある指先を伸ばした。

その先には煙管盆にある赤い煙管。

「寝タバコは良くないぞ」

すかさず傍らの男性は告げる。

「るせえな、煙管吸わねえと力出ねえんだ」

身体が動かないのか彼は寝たまま体勢を変えない。

「動けねえくせに」

体格の良い、切れ長の眼を持つ美丈夫な男性は、この彼を抱き起こしたのだ。

月明かりが差し込む。
そこに映る庭は綺麗に手入れされ、色とりどりの季節の花が咲く。

日本家屋でもあり、洋風建築でもある不思議な屋敷、広い此処に住むのは…、妖しい美しさを持つ若い店主。





『願いを叶えましょう』





そう此処は『願いを叶えるミセ』、なのだ。

赤色の着物を着た彼の名前は、四月一日 君尋。
このミセの二代目店主なのである。


「るせえ、お前がムチャブリするからだろうが」

細い指先は赤い煙管を摘む。

「仕方ないだろう、十日も空けてたんだからな、お前だって悦んでたろう」

こう言ったのは腐れ縁の同級生で、今は此処に入り浸っている店主の助手のような男性で、大きな寺の息子である、百目鬼 静。

「…るせえ」

彼は少し赤くなり唇を噛むと徐に煙管を口にくわえた。

紫の着物が肩から滑り落ちると、白い肌が惜し気もなく露になった。

「誘ってるのか」

骨ばった逞しい腕が肌を滑り胸にある赤い果実に触れた。

「ちが…百目鬼やめろ」

煙管を取られ、キスを交わす二人は…、同性でありながらも身体を重ねる関係。

恋人…なのである。


かたん。

二人のじゃれあいを辞めさせるかの様に、百目鬼の着物の袂から畳に落ちたもの。

「何だ?」

四月一日は百目鬼の腕に抱かれながら、ゆっくりと畳の上にあるものを覗き込んだ。

「…バレッタ、髪飾りか?」

四月一日は、呟いた。

畳に落ちたのは髪飾り。

それも蝶の羽根の模様の髪飾りだったのだ。

「鱗粉転写と言うのだそうだ」

百目鬼は四月一日の身体を抱きながら落ちた髪飾りを拾い上げた。

「十日空けた詫びと土産だ」

そう言った百目鬼は実は仕事で十日ほどこの家を空けていた。

「詫び…っておれは別に、…それよりお前いつまで此処に」

来るつもりだとつい四月一日は尋ねてしまう。
それは素直になれない彼の天邪鬼な性格故の言動。

あの一件以来約十年、百目鬼は相変わらず四月一日と付き合い向かい合っている。
この会話もどれだけ交わされただろう。

「…俺の気が済むまで」

百目鬼はそう答える。

それが日常。


「なんで髪飾り…」

小さく息を吐いた四月一日は、百目鬼の手にある髪飾りに触れたのだ。
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