コトノハの箱
□「澪標」(みおつくし)
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薄暗い壁。
仄かな行灯の灯りが部屋の四隅に置かれ、灯りに浮かぶ蝶の模様が火が揺れる毎に羽ばたいて見えた。
幻想的な空間には、白く透明な布に蝶の刺繍の施された綺麗なレースがいっぱいに広がる。
そしてふわりと流れるように煙が立ち込めている。
煙りはゆらゆらと揺らぎながら、
流れていく。
レースの幕の中には布団の白さが浮かび上がっていて、枕元のお盆には水色の小さな小瓶と、桜の柄の酒器が見える。
す…っと襖が開くと、白い絹の着物に身を包んだ者が入ってきた。
それは四月一日君尋で、肌と同じような滑らかな着物と帯を纏っていたのだ。
それは死に装束のような無垢な白い着物。
行灯の灯りに浮かび上がるは、黒い艶やかな髪、そして灯りが反射するガラスの面。
白いレースを潜った体は、布団の横に屈み込むと視線をそこに横たわる者に向ける。
目覚める様子がないその者は規則正しい呼吸だけしていた。
「…百目鬼」
部屋に声が響く。
消えそうな震える声。
横たわるその者の眼は呼びかけても閉じられたままで。
「…今、助けるから…」
眼鏡を取った手は、かしゃりと枕元のお盆に置かれた。
四月一日は色違いの綺麗な瞳で、横たわる者、百目鬼静を見つめた。
「…百目鬼」
呼びかけても答えぬ彼に、伝い落ちる涙を袖で拭った。
「必ず…」
ゆらりと立ち上がった四月一日は、胸元で結ばれた滑らかな柔らかい帯を解いていく。
しゅるりと滑る音が部屋に響き、やがて白い帯は四月一日の足下に落ちていった。
「…助けるから…」
体を纏う絹の柔らかい布は、背中を滑り落ちる。
抜けるような白さの背中を腕をそして丸みのある臀部を滑っていった。
「必ず助けるから」
譫言のように呟きながら、その体は、布団に寝ているその人に近付く。
百目鬼の傍らに座ると、細い華奢な腕をお盆の桜柄の酒器に伸ばした。
†澪標
行灯の灯りに浮かび上がる白い抜けるような肌。
桜柄の酒器を紅い唇に寄せた。
そして唇に含んだ液体を、
横たわった百目鬼の頭を抱き寄せ、愛おしむように頬を寄せ、
その唇に、
紅い唇を重ねた。
桃の甘い匂いが立ち込める。
愛おしむように自分の胸元に引き寄せ、抱きしめた。
「…ごめん、」
そう言ってまた口付けした。
口づけするのは、自分の想いを移す為。
少しでも、
多く貴方が大事だと、大切だと、かけがえのないひとだと、
何よりも…側に、共にいたいと、
自分の為に何時も危険な目にあう人を、
少しでも護りたいと、
伝えられたら。
自分の肌の温もりを移すように、
抱きしめた。
桜柄の酒器を口に寄せ、中の液体を注いだ。
それを口移しで大事な彼…百目鬼静の口に注ぐ。
「必ず、助けるから…だから」
一糸纏わぬ白い肌が部屋の行灯の灯りに浮かび上がる。
その口移しする姿は妙に妖艶で。
行灯の灯火が、揺れた。
流れいく煙りはゆらゆらと漂いつづけている。
聞こえる音は口づけする際の布団の滑らかな音。
百目鬼の口角から零れた滴を、四月一日は舐め取った。
ぴちゃりという水音が生々しく耳に響く。
「…目覚めて、何時ものように…阿呆って言え…」
色違いの瞳が優しい眼差しで百目鬼を見ると、滴が少しずつ溜まっていく。
「…何時ものように…悪態つけよ…、煩い、喚くなってさ…」
四月一日の手はまた桜柄の酒器に伸びていく。
「…百目鬼」
そして三度目の口づけを。
傾いた頬を透明な滴が伝い落ちた。
ごくり、と喉が鳴った。
喉が鳴った途端に百目鬼の肌に少しずつだが生気が戻ってるように見えた。
「…百目鬼」
四月一日は涙を拭いながら百目鬼の体を布団に横たえた。
そして彼に絡まるように、その白い肌をそのなまめかしい体を傍らに敷いた。
細い手は包むように彼の体に回されて。
彼の体を冷まさないように布団を掛けた。
自分もともに。
擦りよるように百目鬼に体を寄せた四月一日は、
「…こんなおれでも…望んでくれて…ううん、望まれて本当に…幸せだよ」
意識のない百目鬼に寝物語りのように話をし始めた四月一日。
「…初めて逢った時に、もう好きだったんだって…やっと気づいたよ、おれ、鈍いから」
彼からとくん、とくんという鼓動が聞こえると四月一日は頬を擦り寄せる。
「お前の側って…本当に安心できるっていうか…心地よくて…ずっとこのままでいたいな…って思うよ」
四月一日の手は百目鬼の腕を伝い、その手を取った。
「お前のこの手が頭を撫でると妙に嬉しくてさ」
くす、と笑う。
「くすぐったいような、こそばゆいようで…気持ち良いんだよ」
指を絡めていく。
「おれ…夢見たんだ…お前との未来を」
呟くように言った。