コトノハの箱
□人魚の魍(はこ)
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その海は矢車菊のように碧く、透き通ったような硝子のよう…深い海の底に海の民である人魚たちは住んでいるのです。
海の王の神殿は、珊瑚で出来ていて、高い窓は琥珀で、屋根にあるのは真珠の入った貝で…それはきらきら光る真珠で王様の奥様の冠になるのです。
王様には娘がいて、きめやかな肌の人の姿で…足ではなく魚の尻尾のようでした。
娘は十五になると海から人間の世界へ行くことが出来るのです。
人間の世界はなんと美しいでしょう!
街の灯りは星のよう、車の響き、人間のざわめき、教会の鐘…人魚の姫はそう思ったのです。
「人魚姫ですか?」
四月一日はバイト先の不思議な願いを叶える「ミセ」でその女店主壱原侑子が籐で出来た椅子にもたれ読んでいた分厚い紅い本をちらりと見て言った。
「ええ、アンデルセンの童話よ、その中の一つ」
「最後に泡になって消えちゃうっていう…悲しい話」
「結構奥の深い話なのよ…魂がないから人魚姫は他の誰かを選んだ王子を殺せなくて泡になったの…でもね行いを良くしたら永遠の死ぬコトのない魂…人間しか持つコトの出来ない魂を貰えるんですって」
生姜が仄かに香るチャイのカップを侑子は口に充てた。
「そんな事書いてあるんですか?結構リアルですね」
四月一日は手際よく洗濯物を畳みながら侑子に言った。
「ふふ、小さな子が読んだら怖がりそうな表現があったりね、あ、もう良いわよ四月一日」
チャイが入ったカップをソーサに戻すと侑子は席を立った。
「…じゃあ、お言葉に甘えて一度家に戻らないと」
「一人で?」
洗濯物をまとめた四月一日の体が跳ねる。
「…もう夜遅いんだから外出禁止よ」
「…大丈夫ですっ、一人で、何処の箱入りって言うんですか」
「箱入りはお前だろうが」
突然聞こえた声に四月一日は思いっきり体をのけぞらせた。
「な、な、何でお前がっ、帰るなんて言ってねえし」
「大体お前の考えなんてお見通しだ、明日から旅行だからな…支度をしに帰るのはわかってたから」
鋭い百目鬼の視線に四月一日の顔は顔面蒼白である。
「って勝手にミセに入ってくんな」
「モコナが許したぞっ四月一日」
百目鬼の肩には黒饅頭…モコナがニヤリとして此方を見ていた。
「家に一旦寄って百目鬼くんちにお泊まりして、明日出発すればいいじゃない、ね」
翌朝百目鬼と四月一日は荷物を持ち、駅のホームで電車を待っていた。
「大分寒くなったな」
「おう」
駅の新幹線ホームにはコートを着た二人。
まだ早朝なので喋ると吐く息が暗がりの中良く見えた。
「こんな寒くなってからで悪いな」
「そんな事どうでもいいよ、お前忙しかったし」
夏の日に起きた事件の対価として侑子から貰った温泉旅館宿泊券。
百目鬼の部活や(今年も大会で優勝に導くなど学園に貢献した)テストなど日々忙しくしているうち季節は変わりコート無しではいられない季節になったのだ。
四月一日のコートのフードにはファーがついていて…被ると白いファーが可愛い…まあ百目鬼のお見立てなのだが。
「手かせ」
四月一日に手を差し伸べる百目鬼。
「な、何だよ」
真っ赤になりながらそっぽ向く彼の手を百目鬼は強引に取った。
「さっき寒そうにしてたから」
そう言って百目鬼は自分のポケットに冷たくなった彼の手を招き入れた。
「…あったかい」
彼のコートのポケットの中は暖かく…缶珈琲に指先が当たった。
「いつ買った?」
「さっき」
寒そうに指先に息を吹きかけていた四月一日の為に彼は買ったのである。
四月一日の好きな甘いカフェオレを。
四月一日はそっと彼の肩に擦り寄った。
くしゃくしゃと百目鬼の大きな手が四月一日の頭を撫でた。
「…二人きりの旅行は初めて…か」
百目鬼がぼそりと言った。
その飄々とした表情は少し照れているよう。
よっぽど彼に近い人でなければわからない事で、四月一日は彼を見て頬を赤らめ…繋いだ手をぎゅっと握り返した。
「ゆ、侑子さんの話だとお湯が凄く肌にも良いとか…あ、あと疲労回復に効果があるから、百目鬼が休むには凄い良いって」
「お前も偶にはゆっくりと休め…侑子さんや黒饅頭に振り回されないんだから」
「…うん、そうだね」
「素直だな」
百目鬼の言葉が嬉しくて、素直に応えた。
なんでだろう。
凄く彼といる時間が心地良くて…このまま浸っていたい気分。
暖かい気持ち。
外は本当に寒く、こうして新幹線を待っている間にも体は冷えていくのに。
そんな事を思っていたら駅のアナウンスの声が響いた。
「来るぞ」
新幹線に乗り込むと座席番号を調べながら通路を進む。
窓からは通勤客や子供連れの人の姿、カップルの幸せそうな人が見えた。
「荷物」
座席の上に百目鬼はさっと荷物を上げた。
四月一日のも。
そして新幹線はゆっくり動き始めた。