nitty-gritty

□思惟
1ページ/5ページ


辺りが騒がしい。瞼を開けようとしたが、その力もなかった。
「あ…たし…。」
呂律が回らない上に、声も上手く出ない。
「楓さん!目が覚めたっスか!」
聞き覚えのある女の歓喜の声が聞こえた。
「晋助様!!楓さんが!」
女が叫ぶと、何処からか草履の音が聞こえた。楓はゆっくりと瞼を開ける。
「ククク…。自殺志願者か?」
「高…杉……。」
傍らには高杉とまた子がいた。ということは、ここは鬼兵隊の船内…。
「心配したっス!海に浮かんでいたところを慌てて引き上げてから2ヶ月も目を覚まさなかったっスから…。」
「そう…。」
「楓…。何があった?」
「…。」
ぼんやりと遠い記憶を見つめた。頭の中が部屋の中でファイルが散乱したみたいにぐちゃぐちゃだった。あの日、私は…。
思い出せなかった。左手を額に当てて、思い出そうと顔をしかめる。ふと、左手を持ち上げてじっと見つめた。ピクリとも動かない。ただ、手として付いてるだけ。すると、ふとあの瞬間が甦った。
「か…つら…に……海…に…落と…され…た…。」
たったの1文を伝えるだけでも息切れした。
「…楓。喋れてねぇな。」
高杉の口調は怒りを感じさせた。それは桂に対してだろうか。
「きょ…うは……何…日?」
「5月の3日っス。」
2ヶ月前で3月3日。自分の落とされた日は確か…。
「2…月…1日…。」
二人は驚いて顔を見合わせた。
「1ヶ月も海にいたのか?」
高杉の問いにコクりと頷く。高杉はギシリと歯軋りをすると船内連絡用の受話器を手に取り怒鳴った。
「瀬虎の資料はいくらでもあるだろ?医療班は末期の症状を遅らせる薬を作れ!至急だ!」
ガチャンと高杉は通信を切ると、楓に向き直った。
「俺らのことはまだ分かるだろ?」
コクりと頷く。白衣を着た医療班の数人が楓の腕に点滴の針を射し、脈拍を測るためのパットを首につける。
「まだ……だい…じょ……。」
大丈夫?本当にそうか?
楓の言葉が止まる。岩でできていたはずの山がまるで砂の山のように簡単に崩れていく…そんな感覚だ。今まで積み重ねた記憶がいとも簡単に消えていく。
「…楓?」
高杉が顔を覗き込む。楓の顔は強ばり、開いた口からされる呼吸が荒々しく速まっていた。目は焦点も合わず、ぼんやりと天井に向いている。目覚めたときから、進行し始めた。記憶が…消え始めていた。
「どうしたっスか…!」
「楓!」
医療班が事態を察知して慌ただしく動き始めた。この様子を開け放たれた出入り口で武市と河上も見ていた。

楓自身ではこの状態を説明することも出来なかった。だが、医療班の一人が代弁するように高杉に耳打ちする。
「記憶が消え始めています。」
「なっ…!!」
二人は驚いて顔を見合わせた。
「もってあと三時間。呼吸が落ち着いたら五分ももちません。」
「楓!頼むから、俺だけは忘れんなよ。」
まだ、高杉の顔は分かる。返事も出来ない。脳にその顔を忘れないように毎秒毎秒刻み付ける。
二人は呼びかけ続けた。武市も二人に加わった。河上は興味なさげに医療班の様子をガラス窓越しに眺めていた。

それから二時間半後位だった。今までが嘘のように楓の呼吸が落ち着いた。
「俺のこと…分かるか?」
この二時間半で、銀時をはじめとする江戸で今まで関わってきた人々のことも、佐々木や新井のことも、自分自身のことも忘れてしまっていた。
楓は高杉の問いに答えず、眠るようにゆっくりと瞼を閉じた。
「分からない。あたしはもう、何も知らない。」
はっきりとした口調でそう言って、楓は力をなくしたように首を横に傾けた。
「おい!楓!」
怒ったように高杉が怒鳴ったのと同時に脈が停止したことを告げるブザーが鳴り響く。
医療班が慌てて部屋に飛び込んできた。楓の首や両腕に注射針を射し、点滴を何か違うものに変えた。薬が完成したのだ。
「申し訳ございません、高杉様。」
医療班のリーダーが深々と頭を下げる。
「時間はかかりました。しかし、これが楓さんを救える唯一の希望になるかと…。」
医療班の一人が楓の首のパットを外し、直接指で脈拍を確かめる。
「脈拍、呼吸共に戻りました!安定しています!」
報告を聞いて、高杉は安堵でため息をついた。リーダーに頭を上げるように促す。
「よくやった。だが…何か副作用はあるだろ?」
「…はい。一度消えた記憶が戻るのに時間がかかるのではないかということと…。あと五年もつか、というところで…。その時はもうどうする手立てもないかと…。」
申し訳なさそうにリーダーは再び頭を下げる。
「頭を上げろ。…奴にとっちゃあ五年で十分だ。それより、成分表を作っておいてくれないか?見せたいやつがいる。すぐでなくていい。」
「はっ…はい!」
リーダーはもう一度頭を下げると部屋を出ていった。



それはおよそ3ヶ月前…2月1日に遡る。
楓が海に落とされたその日に銀時は大雨の中、見廻組屯所に赴いていた。門番をしていた隊士二人は驚いたようだったが、佐々木に用があると言えば屯所内に通された。銀時の憔悴しきった顔から何かを察したのかもしれない。
連絡がされたのか、一歩踏み入れると佐々木がすぐ近くまで来ていた。
「総督室をびしょ濡れにされても困るので…こちらへどうぞ。」
通されたのは尋問室。今の自分にぴったりだなと銀時は思った。
小さな部屋で、テーブルを挟んで向かい合って椅子が置いてある。佐々木は奥に座ると、向かい側の椅子を示して銀時を座らせる。
「…まあ、あなたがここに来たのは…間違いなくE−85のことででしょう?」
佐々木は間髪いれずに話を切り出した。
「奴のあの特殊な鋼鉄製のリストバンドにはですね…GPSが仕込まれているんですが、一時間ほど前から行方不明なんです。…何故でしょうか。」
あなた知ってるんでしょ、と言わんばかりだ。
「…。」
「あれは相当頑丈に作ってあるので…水に触れることさえなければ壊れないはずなんですがねぇ…。しかし、そうなってしまえばGPSどころじゃない。奴の命がかかってくることは…ご存知ですよね?」
佐々木は隊服の内ポケットから拳銃を取り出し、銀時に向けた。
「白状して頂けますか?…E−85のご友人である以上、あまり手荒なことはしたくないんです。」
そう言って、佐々木はニヤリと笑った。嘘だ。その気になれば何だってするに決まってる。
銀時は追い詰められていた。汗か水か分からないが、顔はびっしょりだった。喉もカラカラだった。
「…話す。その後は…好きにしてくれ。」

経緯は全て話した。ただ、今は判決を待つ被告人のように佐々木の言葉を待っていた。
「…まあ、奴は瀬虎ですからねぇ…。海に入るなど自殺行為です。しかも、雨も降っていたときた。」
佐々木の口調は思っていたよりも軽かった。
「ご存じでしょうけど…奴の右手はほぼ使い物にならないくらい麻痺していました。今日はどうやら左手も動かなくなっていたみたいですがね…。そこまで来てしまうと、もう長くない。それは分かっているのですが、そう簡単に殺されてしまっては…ねえ、坂田さん。」
佐々木はカチャリと安全装置をはずす。
「死んで頂けますか。」
佐々木が低い声で言う。息をつく間もなく、ダンッと銃声が響き、銀時の左胸を弾が貫いた。
銀時は目を閉じ、椅子ごと後ろに倒れた。佐々木は椅子に座ったまま、倒れた銀時を見据えていた。安全装置をかけて、内ポケットに拳銃をしまう。

「馬鹿ですか、あなたは。…あの子がそう簡単に死ぬわけないでしょう。」
尋問室の扉が開き、隊士二人が銀時を運んでいく。銀時の左胸から血は一滴も流れていない。


次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ