nitty-gritty

□追憶
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固く握り締めていた血まみれの右手をそっと開く。そこから黒い蝶が一羽飛び立つ。その名は「プシュケー」。人間の魂を意味し、死の象徴だと本で読んだ。まさか、自分でそれを見る日が来るとは。

その一羽に続くように、後からたくさんの黒い蝶が飛び立っていく。そして、自分の周りを取り囲んでくるくると廻る。何千、何万、何億ものプシュケーは自分の存在が分からなくなってしまうほどに纏わりついてきて、この身体を暗闇へと引きずり込んでいく。
この蝶達は自分に罪を背負わせようとしているんだ。数えきれないほど、人を殺めてきたこの自分に。それで、奪ってきた魂が今、こうやって目の前にある。だけど、最初から人間の道理から外れていたことなんて分かっていた。

これは誰のせいだ?誰がこの蝶達を在るべき身体から引き剥がした?人の殺め方を完璧に会得してしまったのは?刃の零れた、血に濡れた刀で次々と人を斬り捨てたのは?

一体誰のせいだ?
分かっている。何もかも全部自分のせいだ。



気づけば、いつの間にかたくさんの黒い蝶達は消えていた。あれは夢だったのだと思い知らされた。そして今、自分のいる状況も理解した。冷たいコンクリートの地下牢に入れられていた。凍えた空気にピンと張り詰めて、静かな空間。嫌いじゃない。

服はあの時のまま。身体中、斬ってきた人間や天人の血がついていた。それだけじゃなく、泥だらけだった。全て早く洗い落としてしまいたかった。だけど、このまま自分は殺されてしまうのだろう。攘夷戦争の凶悪な戦犯として、処刑されてしまうに違いない。だから、希望なんて持った分だけ無駄だ。それだけ、絶望に落とされた時の衝撃が大きくなってしまうから。

そんなこんな考えていたら、ぼんやりとした灯りが見えるのと共にコツリコツリと靴の音が聞こえてきた。灯りは恐らくランタンだろう。それは暗闇を真昼のように照らし出した。光は段々大きくなっていく。眩しい。耐えきれず目を細め、俯いて寝たふりをした。だが、それだけで引き下がってくれる筈がない相手だと知っていた。だから、こんなことするだけ無駄なんだ。そんなこと考えたら世の中無駄なことだらけじゃないか。

「E−85。分かっているのなら顔を上げなさい。今更逃げようなんて考えてはいけませんよ。あなたに自由なんてないのですから。」
ほらやっぱり。予想は的中した。コイツ以外には考えられなかった。私の牢の前に止まる人間など極限られてるもんだ。だから予想しやすい。私にはコイツだと当てる自信があった。知り合いの足音や歩く癖は全て把握済みだ。
「何をしに来たんです、総督。まさか、あなたが私の死刑執行人ですか。」
顔を上げて言った。知った顔だから、ちょっとおどけてみせた。自分がまだこんなこと出来るなんて内心驚いていた。まだほんの僅かでも人間らしさを持っていたなんて。だけど、やはりふざけてはいられないらしい。突き放すように冷たい返答が返ってきた。

「E−85。そんな簡単に死ねるとは思わないで下さい。あなたのような人はいくら壊れようと最後の最後、廃人になるまで働いてもらうつもりでいますから。」
「腹切りよりも苦しめるってことですか。」
「そうゆうことですね。」
なんて酷い人生なんだろう。自分の生き方も選べない上に簡単に死なせてくれないなんて。私は何でこんな生き方を選んでしまったんだろう。どこで踏み外したのだろう。というか、踏み外したも何も私が育ったのは戦場だった。生まれた時から踏み外していた。選択肢のない人生なんて、自分の運命を変えられない人生なんて最悪だ。

だが、戦場で育ったからこそ自分で生き抜く術も人の殺め方も型のない我流ながらも、その場で通用する程度に心得ていた。人並み以上の技術はあった。本能で生き抜いてきた。これがあったから今まで生き抜いてこれた。いや、生き残る術を身に付けなかった方が今となっては良かったのか?生き残らない方が苦しまずにすんだのか?何を今さら言うんだ。過去の自分を恨んだところで何も変わらない。

「逆に言うと、私は死刑を免れる…ということですか。」
「そうですね。しかし、あなたが私の下でまた働くことが条件ですがね。」
どっちにしろ、絶望なのだ。ならば、まだ生きている方がまし…なはずだ。だけど、また人を殺めることになる。もう、嫌だったのに。生きるためには人を殺めなきゃ生きていけない。そうじゃなきゃ、総督に拷問でもされてしまうに違いない。あの苦しみは嫌だ。死にきれないくらいの苦しみ。死にたいのに死にきれない曖昧な自分が嫌いだ。
殺すか、殺されるか。私に逃げ道はない。自分の中の人間を殺して生きていくしかない。そして、また生き返る機会を覗うんだ。
鉄の檻に僅かに映った自分の顔は自身の人生を嘲っているように見えた。馬鹿らしい、と。本当にその通りだ。また、この男に付き合うのか?操られて奴の代わりに人を殺め、自らの手を汚すのか?苦しめられても、人間らしさを失っても生きていくのか?そうであっても自分にはそれしかない。そう生きるしかない。後悔があってもいい。今の自分に出来る決断を下そう。何度も自分に問うた。

「…分かりました。また、あなたの下に就きましょう。」
「ありがとうございます、E−85。」
私は諦めざるをえなかった。この人生を生きるために、こうゆう判断をしなくては生きてゆけないと。仕方ないんだ。私にはこの道しかない。魂と身を繋げて生きてるだけ、まだ…ましなんだ。そのはずなんだ。

自分の判断に確信が持てなかった。もうちょっと根拠があれば。断定して納得できるような証拠が欲しかった。だけど、そんなのはない。自信がない。嘘か真実か。どちらとも言えない道を歩き出そうとしている自分が恐かった。願うならば、どちらの答えも信じたい。どちらの答えも愛したい。だが、人間は真実を愛す。嘘さえ愛せたら…。

鈍い音と共に目の前の鉄格子が開いた。広がる道。偽りの自由。見えない鎖で一生繋がれてるんだ。なんて哀しい話だろう。
「行きますよ、E−85。」
総督の声に私はゆっくりと立ち上がる。ボロボロになったブーツで歩き出す。ある意味、地獄への道を。
また、どうせ厳しい訓練が待っているのだろう。もう、いい。もう、何も考えるな。自分で決めた道だろ?今さら考えたって迷ったって私に逃げ道はない。もう決めてしまったのだから。


nitty-gritty
(そう、これは佐々木を上司として養成された、諜報工作員の一少女の物語である)



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