新章 螢の光
□譲り愛
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ふと、サトラは目を覚ました。
回復の兆しはあるがまだ本調子ではないので、夫や義弟、仕えているメイドにまでベッドで休めと言われ休んでいた所だった。
窓から見える空は藍色の帳に覆われている。
時計の針を見れば、夕方の五時を過ぎている。
城で働く日勤の者は終業時刻、夜勤の者は始業時刻だ。
「あの人は……」
頭に、最近冥府から戻って来た夫の顔が浮かんだ。
幽霊だけど、実体のある不思議な存在。戻って来た日に握った着物の感触は、今も思い出せる。
“もうどこにも行かない”
告げられた、言葉も。
ゆっくりと確かめるように、足を床につけ、ぎこちない足取りで隣室に
設けられた執務室に向かった。
久しぶりの執務室は、紙とインクの匂いに包まれていた。
机には書類が乱雑に積まれ、乗せ切れなかった物が応接用のテーブルにも乗っている。
休んでいる間に溜まった仕事かと肝を冷やしたが、よく見れば“済”と書かれた付箋が貼られていた。
積まれている量の割には、済んでいる方が多いらしい。
呆然としたまま、応接用のソファーに視線を滑らせると、夫が書類を片手に背もたれに背を預けて寝ていた。
足音を極力立てず、そろそろと夫に近寄る。
寝息と合わせて、肩が上下に動いている。
試しに頬に触ると、ほんのりとした温かさがあった。
冷たくない。
別れた時のように、雨に濡れて、血を流して、冷え切っていない。
その些細な事に、どうしようもなく苦しくなって、安堵して、彼に触れた手を握り締めた。
詰まった息を深く吐き出し、空いている彼の隣に腰を下ろす。
丁度良く、窓の外が見える位置だ。
帳は、藍色から墨色へと変わろうとしている。 ちらちらと瞬くものは、見え始めた星たちだろうか。
夫の寝息を聞きつつ外を眺めていたら、潜んでいた眠気が顔を出し
始めた。
「父様、母様がいないのだけど……?」
寝室に居ない母を探して、末娘のアスラが執務室に顔を覗かせる。
すると、父のケイラが口に人差し指を当てて、“しっ”と短く息を吐いた。
隣をよく見れば、母が父の膝を借りて寝息を立てている。
アスラは目を半眼にし、淡々とした口調で答えた。
「お邪魔しました」
end
(To be continued.)