「あら。また来てくれたの、なまえちゃん?」
「もう、聞いてくださいよ、レモンさん!」
1番最初にここ、ニューハーフバーのスウィングボールに来たのは、たしか看護学校の久しぶりに会った友達と呑んでいて、三軒目の、ちょっとした好奇心だった
当時私は看護師2年目で、上からのプレッシャーと今の生活に嫌気がさしていて、いろんなものに押しつぶされそうだった
患者さんの笑顔だけが癒しで、引き継ぎ作業をして、看護記録を打ち込みながら何度もため息をつく日々
学生の頃は、あれだけやる気に満ち溢れていたのに
長い実習の中で日に日に病んでいく周りの友達に対して、私は毎日実習が楽しみでしょうがなかった
先生からも逆にびっくりされてしまうくらいには毎日楽しそうだったらしい
けれど実際蓋を開けてみれば、毎日先輩方の顔色を伺いながら、学生の頃のように1人の患者さんと密に関わるなんてできる筈なくて、業務を終えるだけでもう精一杯
私のしたかった看護もできない
辛いって感情しか浮かんでこなかった
そんな時、同じ看護学校で同じ病院に就職した友達と休みが合って呑みにいくことに
やっぱり、その友達も同じ悩みや不安や怒りを抱えてて、もうお酒が進む進む
一軒目が終わった時点でもう2人ともふらふら
そのままの勢いで二軒目にも行ったけど、友達は明日仕事らしく、おぼつかない足取りで帰っていった
私は偶然次の日も休みで、まだ帰る気なんてなれなくて、新宿をぶらぶら
本当に好奇心だった
気がついたらもうスウィングボールの扉を開けているところだった
『あら、珍しいお客さんね』
出迎えてくれたのは、綺麗な坊主のお姉さんだった
あれ?ニューハーフバー・・・あれ?
緑色のチャイナ服に身を包んで、ちょうど空のグラスをいくつか運んでいるところだった
驚いた表情から、すぐに綺麗に微笑んでくれて、あれよあれよと席に案内
名前はラベンダーさん
やっぱりニューハーフらしい
スリッドから覗く足が、私たちの白とはまた違う白で妙に艶めかしくて、本当に女性みたいだ
周りもこれくらい綺麗なのかと思って見渡してみたけど、ほかのテーブルにいる方々はゴリゴリだったり、顎が青かったり、どこか男性が残ってる
お酒を飲む動作すらエロティックに感じて、また違う意味でくらくらした
ラベンダーさんはすごく聞き上手で、さっき吐き出したばかりなのに、また私の口からはいろんな言葉が流れるように出てくる
きっと言葉を物理的に存在させることができたのなら、私は自分が吐き出した言葉たちに埋もれて動けないだろう
そして、たぶんその言葉たちは見たくもないような醜い色をしているにちがいなかった
吐き出した言葉と同じくらいお酒を飲んで、視界がぐにゃりと歪む
なんだか世界がぐるぐると回っているような気さえした
ところどころ霞んでいる記憶の中で、この場面だけは、私は生涯忘れないだろう
ラベンダーさんの白くてしなやかな指の中、黄金色のお酒が入ったロックグラスでちょうど氷が鳴いた
それは透き通った音で、すごく心地よい
ぼーっと見つめながら余韻に浸る私を他所に、ラベンダーさんはそれを一息に飲んだ
その一挙一動から目が離せない
白い喉元がゆっくりと動いて、またゆっくりと口元からグラスを離す
空のグラスの中でまた氷が鳴いた
お酒のせいで、なんだか熱の篭ったため息をひとつ付いてから、そのグラスを片手に呆れた表情で私を見るラベンダーさん
『できないできないってアンタさっきから言ってるけど、できないって決めてるのはアンタでしょ。見た目はいい女よ、アンタ。けど今のアンタ中身はからっしき!・・・中身もいい女になりなさいよ、なまえ』
そこからの記憶はてんでない
次の記憶は、その日の夕方、ベッドの上だった
まるで夢を見ていたみたい
けれど帰り道で転んだのか膝と肘のかすり傷と、友達から無事に帰れたかの心配のメッセージが現実だと教えてくれた
次の日から、私はラベンダーさんのいういい女になれるように努力した
汚い弱音は吐かなくなった
そこで、私は患者さん第一だと思っていたけれど、ただ私を第一に考えていただけだったことに気づいた
勤務中は頭をフル回転してるせいか、家にいる間はご飯を食べてるか寝てるかどちらかになった
でも、それに身体が慣れてきた頃には、また日々が楽しくなってきてた
先輩にも、後輩にも頼られるようになった
時々うまくいかない時はあるけれど、前みたく嘆いてるだけじゃなくなった
全部、ラベンダーさんのおかげだと思う
お礼を伝えに、またあの扉を開けた時、前と同じようにラベンダーさんはなにかを運んでいるところだった
前と違うところは、私の首にはマフラーが巻かれていて、ラベンダーさんの衣装も袖があるものになっていたこと
また驚いたように目を見開いて、目を細めながら笑ってくれた
『あら、いい女になったじゃない』
そこから、私はここに通うことになった
その途中で、ラベンダーさんは次男で、長男がローズさん、三男がレモンさんであることを教えてもらう
ラベンダーさんがいない時はほとんどこの2人が接客をしてくれた
あまり3人とも見た目は似ていないけれど、包み込むような雰囲気とか安心感とか言いたいことはズバッと言ってくれるところは似てる
この三きょ・・・姉妹は、キャラとかもいいし、お店じゃとても人気らしい
あの日私がラベンダーさんを指名もなしに選べたことは奇跡に近いってほかのニューハーフさんに教えてもらった
名前はたしかスミレさんだった気がする
そんなラベンダーさんは、ほかのお客さんについてる時も、私が来たことに気づいたらできる限り私の席に来てくれるようになった
申し訳なく思ってると、アンタはそんなこと気にしなくていいのよってまた呆れながら言れたのは記憶に新しい
ローズさんも、レモンさんも来れるときは席に来てくれる
例えば、この前は淡いピンク色のマーメイドドレスを着たローズさんが接客をしてくれたり
そのときは、なんの話からか、たしかローズさんたちのお母さんの話をしていた
お母さんは田舎で一人暮らしをしていて、たまに3人で休みを合わせて顔を見に行くらしい
孫の顔が見たいと毎回嘆かれるらしく、今までは適当に躱していたらしいけど、この前一筋の希望があることを伝えたそうだ
『一筋の希望、ですか?』
『そうよん!それ聞いたママったら、やっと孫の顔が見れるかもしれないって嬉し泣きしちゃって、もう大変だったのよ〜』
『お母さん、よっほど嬉しかったんですね』
『うふ!私たちの兄弟にも、ちゃーんと男がいたのよ。なまえちゃん、よろしくね』
『?はい』
はて
私はなにを任されたんだろう
ていうか一筋の希望というのも分からない
もしかすると、3人にはまだお兄さんか弟さんがいるのかも
生き別れとかだったりしたのかな
不思議には思ったけど、とても楽しそうに笑うローズさんにそんなこと聞けなくて、手元にあった甘いカクテルを一口飲んだのを覚えてる
ラベンダーさんとの思い出はまだある
思い出って呼んでいいのかわからないけれど
たしか、前に銀座の近くで先輩と飲んだ帰りだった
ネオンが光り輝く街を抜けて、少し暗いビル街に出た時
私より一回りほど歳が上のサラリーマンが向かい側から歩いてきていて、すれ違いざまに声をかけられた
内容は、端的に言うといかがわしいホテルに行きませんか
当たり前だけど、即答でお断りした
けれど、すごくしつこくてどれだけ断っても離れてくれない
最終的に腕を掴まれて、もう叫んでやろうかと思った時、その腕をまた違う腕が掴んだ
驚いて顔を上げると、そこにはタバコを銜えたラベンダーさん
衣装とかじゃなくて、男物とも女物ともとれる私服だ
そのままラベンダーさんはその腕を簡単に捻って、サラリーマンが鈍い悲鳴をあげる
あのままじゃ関節が外れちゃいそう
看護師特有のアセスメントが脳内で始まりかけた
『ヒトの女に手出してんじゃねーぞ』
聞いたこともないような低い声
聞いたこともないような話し方
見たこともないような力
初めて、この人は男なんだって思った
謝りながら足早に去っていくサラリーマン
もう酔いなんて冷めてしまったことを覚えてる
けれど、私の胸は何故かどきんどきんと大きく悲鳴をあげていて、言葉がなかなか出てこなかった
『た、すけていただいてありがとうございます』
『!もう、このへんは危ないんだからすぐ叫ぶかなんかしなさいよ。危機感ないわねえ、アンタ』
『さすがに掴まれた時は思いました』
『声かけられた時点でよ。・・・あとごめんなさいね、助ける理由がほしかったから、ついヒトの女なんて言っちゃったわ』
『いえ、本当に助かりました!気にしてませんよ、そんなこと』
『・・・ほんと、危機感ないわねえ』
さて、そろそろ過去に浸るのはやめよう
また私はスウィングボールを訪れてる
来た時間がなかなか遅いのとド平日ってことが重なって、お客さんは少しまばらだ
今日はレモンさんが接客をしてくれるみたいで、ラベンダーさんは休憩らしい
レモンさんが作ってくれたハイボールを受け取って口にする
ラベンダーさんには少し悪いけれど、ハイボールはレモンさんが作ったものが1番美味しい
今日のレモンさんは膝丈のタイトスカート
もちろん色は黄色だ
「−−−じゃあその研修医、結婚してたのね」
「そうなんです!!かっこくて、でも結婚指輪してなかったから看護師の間で人気だったんですけど、この前の飲み会で、酔ってバラしたらしくて。それも、隠してた理由が看護師たちにちやほやされたかったからですよ!?」
「最低じゃないの。看護師敵に回したらやっていけないんじゃない、その研修医?」
「次の日からスタッフルームの空気が殺伐としてます」
「ふふ、さすが女の世界は怖いわね」
「あーあ、医者と結婚なんて憧れてたんですけどね」
「そりゃ玉の輿は女なら一度は夢見るわよ」
「イケメンなら尚良しです」
「あーら、楽しそうな話してるじゃない」
「ラベンダーさん!」
「げ、」
「なまえが来てるなら声掛けてくれてもよかったんじゃなーい、レモン?あと、げってなによ」
「・・・じゃあなまえちゃん、楽しんでいってね!」
「あ、行っちゃった」
「逃げたわね、レモンのやつ・・・」
「逃げた?」
「こっちの話よ。この前話してた研修医の話してたの?」
「はい!かっこよくて狙ってたのに、結婚してたんです」
「あれだけ看護師たちに思わせぶりな態度しておいて?」
「そうなんです。ホントに最低ですよ、もう」
「阿呆ねえ、男なんてそんなもんよ」
「あーあ、私は結婚できるんですかねー?最近ものすごく心配になってきました」
「・・・アンタなら大丈夫よ、なまえ。アンタはいい女になったわ、このアタシが保証してあげる」
「ってことでヤケ酒ですよ、ラベンダーさん!おかわりください!!」
「もう・・・。はい、どーぞ」
そこからラベンダーさんが手際よく、タイミングよくお代わりを作ってくれたから、あれよあれよのうちに、また視界がぐにゃぐにゃと歪んでいた
まるで最初にあった時みたいだ
行儀悪く肘をつきながら、ラベンダーさんを見る
透き通るような肌は変わらず官能的エロティックに感じるけれど、よく見るとがっしりとした胸板とか綺麗についた筋肉とか、所々に雄々しさが残っていることに最近気がついた
私の視線に気づいたのか、お酒を作っていた手を止めて私を見るラベンダーさん
どうやら私は今日最後の客らしい
「なまえ、」
「なんですか、らべんだーさん?」
「呂律、回ってないわよ。・・・もし、アンタがどうしてもって言うなら・・・、」
「うふふ、わたしがうれのこったときは、らべんだーさんがもらってくださいね」
「!・・・ばかね、なまえ。当たり前じゃない、他の奴らになんて、くれてやるもんですか」
それから、おでこに柔らかい感触
待って今なんて言った?
あなたを待っています
(やっと言ったわよ、レモン!!!)
(今日は赤飯ね)