我、妖怪に御座候
□午後1時14分_花穂様のお屋敷
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陽が中天に昇る頃になっても、主様は帰ってこない。
朝は衝撃の余り哀しむだけだったけど、時間が経つにつれ、むしろ時間が経ったからこそ、哀しみは怒りに変わってきている。
主様の嘘つき!!
プリプリしながら主様の布団を干し、ついでに主様が気に入っている(らしい)菊枕のほつれを直してもらうことにした。
菊枕は秋の終わりに摘んだ菊の花びらを乾燥させて詰めて作る。
毎年、僕が主様のために花びらを摘み、花穂(かすい)様にお願いして雀どのの一人に枕に仕立ててもらっているんだ。
僕は縫い物が出来ないし、主様は当たり前だけど、縫い物をしない。
だから、花穂様にお願い出来るのは本当に有り難い。
それに、とてもお美しいし…主様をお好きなようだし…。
お綺麗で高貴なおチカラに溢れた花穂様は、本当にお目が高い。
主様ほどの妖など、そうそういやしないんだからっ!
クスリ笑って、菊枕を手に屋敷を飛び立った。
妖の屋敷を訪ねるのは、人間の屋敷を訪ねるのとは勝手が違う。
屋敷は、開かれたモノにだけ開く門みたいな場所にあって、そこに在るけど、そこに無い。
僕だって主様が花穂様にお願いしておいて下さらなかったら、花穂様のお屋敷を訪ねることは出来なかった。
屋敷の西の虚空で、主様が教えてくれた花穂様の御名を思い描き、ふっと気を飛ばしてお許しを待つ。
しばらくすると、虚空に小さな炎が現れ、見つめるうちに吸い込まれるような感覚になった。
これが花穂様のお屋敷へ行く時の前兆で、再び意識がハッキリする頃には、もうお屋敷の門の前に立っている。
クラクラする感覚を頭を振って飛ばすと、僕は大きな門の隣にある勝手口の戸を叩いた。
僕は主様のしもべにすぎない。
稲の花をあしらった彫刻が施された大きな門から迎えられるわけがない。
「こんにちは、小鴉にございます。菊枕を直していただきたくて参りました。鈴女(すずめ)どのをお願いいたします!」
慣れた口上を述べて返事を待つ。
「あぃ。」
木の戸の向こうから、女らしい艶やかな返事が聞こえ、小さな戸が音もなく開く。
再び吸い込まれるような感覚に襲われ目を閉じると、後ろでバタンと戸の閉まる音がした。
これでやっと鈴どのに枕をお願い出来る。
ホッと息を吐き、瞑ったままだった目を開け、声を失った。
「…して、若鳥どの、おぬしの主はどこにいるのかえ?」
「はっ! はあ?!」
僕の目の前に現れたのは、可愛らしい鈴どのではなく、この屋敷の主、花穂様だった。
「ほれ、申してみよ。」
宙を舞う狐火の灯りに照らされ、錦の着物に身を包んだ花穂様は、脇息に寄りかかり、物憂げに広げた扇を揺らす。
色鮮やかな着物に流れる艶やかな髪は、花穂様の動きに合わせてきらきらと光を反射した。
…美しい。
思わず目と心を奪われて惚ける僕の服の裾を、いつの間にか脇に控えていた鈴どのがくいくいと引き、ようやく我に返った。
「はっ! 申し訳ございません! 姫様には大変ご機嫌麗しゅう…ご、ご尊顔を拝謁でき…誠に」
「そんなことは聞いておらぬ。」
床に伏してのご挨拶は、花穂様の不機嫌な声に遮られた。
「まったく、口上一つ満足に申せぬとは。」
蔑むように言われて身が縮んだ。
ああ、帰って主様に口上の練習をお願いしなくちゃ。
「おぬしの主はどこじゃと聞いておる。」
伏した床に花穂様の影がゆらりと揺れた。
「我が主は、人界にて所用を済ませておりまする。」
今度こそ粗相がないようにと願うのに、聞こえてきたのは嘲笑だった。
「おぬしの主は、人界にはおらぬ。」
「え?」
驚いて顔を上げ、嘲りの滲む笑みに迎えられて顔を伏せた。
「申し訳ございません!」
謝りながら、今朝主様が帰らなかったことを思って苦しくなった。
約束を違えることのない主様。
主様が、僕が哀しむことをするはずがないのに。
色惚けしたと思うなんて…。
「ふん。」
「主様が、我が主が人界にいないというのは、どういうことでしょうか!?」
動揺のまま、敬語すら忘れて、必死で問いかける。
「何か知っておられるなら、お教えいただけないでしょうか?!」
床に映った僕の顔は、見たこともないくらい真剣で、またそれが怖くなる。
「己の主の気配も追えぬモノが何とする。」
静かに投げられた強烈な叱責に、打ち据えられたようにカラダが震えた。
主の異変にも気づかぬしもべ。
そんなモノに何の意味もあるはずがない。
我、在って無きが如し。
だけど…!!
どんなに悔やんだって主様の従者は僕一人。
主様がお困りなら、この身にかえてもお救いせねば!
冷たい床から顔を上げ、畏れ多くも花穂様の目を見つめた。
「お願い致します。主が窮しておられるなら、しもべが駆けつけるは道理。力の有り無しは関係ございませぬっ!」
怒りを含んでもなお花穂様は麗しく、目を合わせただけで心を奪われそうになる。
それでも、僕は必死に目を合わせ、花穂様の返事を待った。
「愚かで未熟…ではあるが、」
美しい唇からこぼれる言葉は辛辣そのもの。
「…忠義の心は忘れておらぬようじゃな。」
ゆるりと扇が揺れ口元を隠した。
それを合図に再び顔を伏せ、目を閉じる。
「彼奴は、囚われておる。」
驚きに目を見開き、近づいてくる影を追う。
知らされた現実は、俄かには信じがたい。
気持ちが姿に出たのか、笑うような気配がした。
「コレを貸してやる。屋敷から主の気を追え。」
「え?」
聞き返す間もなく、パンという破裂音の後世界が暗転し、何も見えなくなった。