MONSTER
□回帰する呼吸
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生き抜いた先で待ち構えるものを想像する。
怪物が巣食う終焉は、きっとそう遠くない。
「俺のやり口が気に入らないときは、そいつで俺を撃て」
冗談ではなく本心から生まれた言葉とはいえ、まさかそれが現実になるなんて思ってもいなかった。
毎日血生臭いところで生きているのに、俺も相当気が緩んでいるのかもしれない。
鍛え上げた身体もドミネーターの一撃にあっさりと負け、重力に逆らえず無様に崩れ落ちていく。
全身が地面に投げ出された瞬間、どういうわけか俺は微かな心地良さを感じていた。
新人監視官が剥き出しにした正義は、忘れかけていた代物だ。
刑事は誰かを守るために存在する、そんな大前提は一体いつ俺の中から消えたのか。
本当は考えなくてもわかっている。
俺の正義は、あいつの死を目にしたときから失われたままだ。
瞼の上からうっすらと差し込む光に懐かしさを覚えて目を開ける。
見慣れた天井は白く、ファンは澱んだ空気をかき混ぜるため休みなく回っていた。
掌に力を込めてみるが、それは身体の一部とは思えないほど自由が利かない。
この調子だとしばらくは本も読めないだろう。
手を動かすのは諦めて、視線だけ宙に泳がせる。
まだ死ねない。
奴を捕まえるまでは、何があっても生き延びる。
何度そう誓えば結末を見届けられるのか、今はまだ霞む真実に目を懲らす。
そんな俺に頭を下げたのは、腐った世界を知らない新人監視官だった。
「すみませんでした!」
「…執行官に謝る監視官は珍しい」
「やっぱり怒ってますか…?」
「あれがあんたの判断だった。俺が文句を言える筋合いじゃない」
「…私の判断、間違ってたんでしょうか。ただチームの足を引っ張って、皆を危険に晒しただけだったんでしょうか」
新しい監視官もとい猟犬の飼い主、常守朱。
公安局刑事課一係に配属されたばかりの彼女は、初日から己の正義を盾に俺を撃った。
突拍子もないことをしでかしてくれた割に、後から不安に苛まされたのか、ベッドに横たわる俺を見て唇を噛みしめている。
こうして俺と話をするだけでも緊張してしまうのか、身体中に無駄な力が入っていて呼吸も浅い。
働き始めてまだ二日しか経っていないのに自身の役目をこんなにも考え込んでいるなんて、どこまで真面目なんだろうか。
久しぶりに見たシビュラ以外の正義に興味を抱いたなんて言えば、ギノは呆れるだろうし一係の連中も鼻で笑うに違いない。
だが、現場のルールを飛び越えてまで彼女が自力で考えて判断を下した、それは決して無碍にできないはずだ。
「なぜそう思った?」
「縢君…縢執行官に言われました。あんたは何にでもなれた、どんな人生を選ぶことだってできた、それで悩みさえしたんだろって。彼は五歳でサイコパス検診に弾かれたんですよね?」
「…ああ」
「それからずっと潜在犯として生きてきた、一生隔離施設で過ごすより公安局の猟犬になったほうがマシだ、そう思って執行官になったと聞きました。執行官の仕事を殺し屋家業って言いながら…」
縢が初対面の人間にそこまで話すのは珍しい。
確かにあいつは皮肉や不満をよく口にするが、誰にでも見境なく悪態をつくわけではなかった。
「あんたが監視官になった理由を、縢に話したのか」
「…はい。十三省庁六公司全部でA判定が出ました。でも、五百人以上いたクラスの中で公安局の適性が出たのは私だけで…だから」
ここで働けば、きっと自分にしかできない何かを見つけられると思って、と彼女は小さく付け加えた。
聞けば聞くほど、何故縢がこいつに食ってかかってしまったのか納得できる。
縢は将来のことを考える間もなく潜在犯となってしまった。
自分が何者なのか全くわからないまま未来を閉ざされたやつが抱える劣等感なんて、この新人監視官は想像したこともないだろう。
シビュラに祝福された人生を歩んできた彼女にとって、縢の過去は今までもこれからも縁遠い話だ。
幸せは数値化できると保証された世界を憎む人間は、必ずしもゼロではない。
ここで働く以上、遅かれ早かれ彼女はその事実を知ることになる。
煙草が吸えれば余計なことを言わずに済むかもしれないが、生憎ここは禁煙だ。
言葉を続けずにはいられない。
「生まれてくる時代を間違えたな、常守朱」
「…え、」
「シビュラシステムが確立する前は、誰もが悩みながら物事を選択して生きていた。今この世界で自力で何かを選ぶことは殆どない」
「…でも、そのおかげで皆幸せに」
「それがあんたの答えか」
彼女は反論せず、言葉はそれきり途絶えてしまう。
今までこんな問いを投げかけられるなんて、おそらく学生時代の最終考査ですら有り得なかっただろう。
俺がこいつに与えるべき言葉は既に決まっていた。
何が正しいのか、潜在犯となってしまった俺には決める権限もないが、監視官にはその権限がある。
「あんたは、何が正しいかを自分で判断した。役目より正義を優先できた。…そういう上司の下でなら、俺はただの犬ではなく、刑事として働けるかもしれない」
「あ…ありがとうございます」
「執行官に礼を言う監視官も珍しい」
監視官、常守朱を肯定する。
そうすることで救ってやりたかったのは、もしかしたら過去の俺自身なのかもしれない。
だが、彼女の次の問いかけで、俺は俺を取り戻してしまう。
「もっと落ち着いて考える時間があったら、狡噛さんだって、彼女を撃とうとはしなかったですよね」
「どうだかな…俺にはやり残したことがある、どうあっても始末を付けなきゃならない役目が」
緊急セラピーが必要なほど犯罪係数が上がっても、なりふり構わず捜査を続ける。
あのときの俺は正しかった。
それだけは盲目的になってでも信じなければならない。
たとえ誰に認められないとしても、俺だけは俺の正義に忠実であるべきなのだ。