MONSTER
□回帰する呼吸
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仮初めの正義に溺れるこの身体。
狡噛が新人監視官に撃たれた。
そんな噂は、さほど人数がいない刑事課の間ですぐに広まってしまう。
「こりゃあ、とんでもない新人が来ちまったもんだな…」
狡噛が撃たれた後でそう呟いた征陸さんは、少し困ったような目で曖昧な笑みを浮かべていた。
おそらく一係の誰もが、征陸さんと同じことを考えただろう。
監視官と執行官の衝突は珍しくないし、前例だっていくつも存在する。
それでも、新人の女監視官が「あの」狡噛慎也をドミネ−ターで撃ち抜いたという事実はちょっとした話題になった。
二係や三係の執行官の間でも、彼の存在はよく知られていて能力も認められている。
同僚としてお世辞抜きで言わせてもらっても、狡噛の能力は高い。
危険を冒しても最善の解決策を最短で実行できるだけの器量を持ち合わせた狡噛は、刑事課で一目置かれている。
おまけに、三年前までは執行官とは違う立場で公安局に在籍していた関係で、外部の人間にも顔が利く。
仕事については文句のつけようがないほど、できた人間だ。
そんな狡噛を尊敬すると同時に、末恐ろしく感じてしまうことがある。
シビュラシステムは人の心を読み取ってくれるけど、私は出来損ないで頭の悪い人間だ。
こんなに毎日顔を突き合わせている相手の感情一つでさえ、満足に理解できない。
非番なのに出勤する羽目になってしまった私は、結局その日の夜遅くに部屋へ戻った。
明日は夜勤なので朝起きるのも遅い。
夜型とはいえ遅番だと面倒事が起こり出動する確率も高いので、本当なら避けたいけど、これも仕事だ。
否、仕事ではなく、潜在犯である私に残された唯一の社会奉仕活動というのが正しいかもしれない。
部屋に入り、そびえ立つような本棚の間をすり抜けながらジャケットを脱ぐ。
パラライザーとはいえドミネーターで撃たれた以上、狡噛はしばらく治療に専念しろと言われるはずだ。
無茶をする分、頻繁に入院沙汰になって志恩さんを困らせることも多い。
そんな狡噛に、私はよく本を貸していた。
今時ハードカバーの本なんて骨董品扱いなのに、狡噛は電子書籍よりも紙の本を好むらしい。
古風で非効率的な男だと普通なら鼻で笑われる話でも、私は全く笑えなかった。
本を読むなら紙の本に限る、私も狡噛と同じでそう思っているタイプだ。
貸し借りに手間がかかっても、ページをめくる感触や古びた紙の匂いは一度味わうと癖になる。
ジャンルは気分に左右されがちで、本棚にはかつて偉人と讃えられた人物の本から俗っぽいものまで一通り揃っていた。
私は比較的どんな文献でもそれなりに面白く読み、狡噛は特に哲学に関する本を手にすることが多い。
今でも時々、あの大きな手で本のページを丁寧に捲る姿を初めて見たときを思い出す。
普段はトレーニングしか脳がない朴念仁なのに、意外としか言いようがない。
合理的ではないものを弾くのが当たり前の世界で、珍しい男だ。
「…何にしようかな」
プラトンもオーウェルも貸したことがあるし、ソクラテスだってもう目を通したはずだ。
狡噛ならどんな本を読みたがるのか、読み終えた後で何を考えるのか。
本の山を無心に眺めながら狡噛のための一冊を探し出す。
代わり映えのない生活を送る私にとって、それはささやかな楽しみでもあった。
結局睡眠よりも読書を優先してしまった私は、数時間の仮眠を取った後で出勤の準備に取りかかった。
シャワーを浴び、着替えを済ませてサプリメントを水で流し込む。
鏡を見て、いつもと特に変わりない姿に安心しながら部屋を後にした。
足早に歩けば一係のフロアまでは五分とかからずに済むのが唯一の救いだ。
身体を洗うときでも身につけたままのクロスネックレスは、どんなときも肌身離さず胸元に隠れている。
皮膚に金属特有の鋭利さを感じつつ刑事課オフィスへ足を踏み入れると、そこには秀星や六合塚がいた。
「あれ、香月?」
「おはよう、秀星。シフト明けお疲れ様」
「あの…すみません」
秀星に話しかけると、私の後を追うようにして聞き慣れない怯えた声が続いた。
振り向いてみると、そこにはまだ幼さが残る顔立ちをした新人の監視官が立っている。
「昨日配属された、監視官の常守朱です。執行官の陽本香月さんですよね?きちんとした挨拶がまだだったので…」
手元のデバイスから私の情報を呼び出した彼女は、電子表示と実際の顔を見比べつつ言葉を探している。
データ上の私の人相はお世辞にもいいとは言えないので、あまりじろじろ見てほしくないと思いながら口元を緩めてみせた。
「刑事課一係の執行官、陽本香月です。どうぞよろしくお願いします、常守監視官」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
握手を求められたものの、彼女は相当緊張していたらしく、小さな掌は汗ばんでしまっている。
可愛いリアクションをしてくれるこの子は、ギノとは正反対といったところだろうか。
二人が同じ一係の監視官だなんて、シビュラシステムは面白いバランスの取り方をする。
そう思ったのを隠しきれず、ふいに笑みが零れてしまった。
「どうかしましたか?」
「…ああ、何でもないです」
繋がった手を柔らかく離すと、彼女は心底ほっとした表情になる。
彼女が狡噛を撃ったなんてとても考えられないけれど、私はこの目でそれを見届けてしまった。
現実を受け入れ、真実を探し出す。
それが、今はどこにいるのかわからない彼から私に課せられた役割だ。