MONSTER
□abnormalize or normalize
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この手で貫くのは、己の正義ただ一つ。
浅い眠りから覚めると、視界には見慣れた天井が広がっていた。
薄暗く雑然とした部屋、山積みになっている資料、飲みかけのペットボトルやコーヒーの空き缶が転がった机。
起き上がると、ソファーのスプリングが安っぽい音を立てながら小さく軋む。
旧式のファンは澱んだ空気をかき回すだけで浄化まではしない。
窓のない、檻にも似たここが俺の棲み処だ。
ソファーの片隅には、今や骨董品扱いになってしまったハードカバーの本が開かれたままで置いてある。
重厚なそれを手に取れば、昨夜の出来事がようやく思い出せた。
眠る前に気分を落ち着かせようと読書を始めたところ、逆に脳が冴え渡り、結局明け方を迎えてしまったのだ。
あいつから本を借りるようになって、これで何冊目だろうか。
眠れない夜はとびきり難解な本を読むといい、そうすればすぐに眠くなる。
そう言いながら屈託なく笑う彼女の姿が目に浮かぶ。
借りていた本は全て読み終えてしまったので、また別なものを借りてこなければならない。
手元のデバイスが示した時刻は勤務時間の三十分前で、簡単な身支度を済ませる程度の時間はあった。
本を閉じ、皺になってしまったワイシャツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びてスーツを着直す。
ネクタイを適当に結び、煙草のフィルターを軽く噛みつつ火をつければ、煙たさと苦みで舌の上がざらついた。
酒に煙草、合法ドラッグまでバーチャルが主流となった今、金を払ってまでこんなキツい煙草を吸う奴なんて殆どいない。
それでも、例え世界で最後の喫煙者になろうが、俺は煙草を吸い続ける必要があった。
ニコチンを肺の奥に押し込め、短くなった煙草を灰皿へねじ伏せてコートを羽織る。
灰皿は既に吸い殻で溢れ返っていたが、それを捨てるのも面倒だった。
数秒もかからないことなのに億劫がってしまう性格は、一体誰に似たのだろうか。
少なくとも以前は違った。
変わったのは三年前。
煙草を吸い始めたあの事件がきっかけだ。
思い出に浸る暇もなく、部屋を出て足早にフロアへ向かう。
そこは俺のもう一つの棲み処で、いくつもの液晶画面が目まぐるしく様々な情報や映像を映し出していた。
厚生省公安局刑事課、一係のデスクが並んだフロア。
どうやら俺が一番遅かったらしく、自席に座り小さなゲーム端末を弄っている縢が皮肉めいた口調で話しかけてくる。
「コウちゃんは今日も相変わらずだなぁ、ギリギリすぎじゃね?」
「どうせオマエはそれで徹夜してたんだろ」
「当ったりー、今いーとこなんだよ」
「ギノは?」
「局長直々の呼び出しだってさ」
周囲を見渡せば、執行官は非番の一人を除いて全員揃っていた。
ヘッドホンを耳にあて、事件現場に残された音源のノイズをスキャニングする六合塚。
デスクワークが性に合わないのか、立ったまま執行対象者のリストを次々と流し読みしていくとっつぁん。
今日は縢と六合塚が遅番のはずだが、人手不足を理由に駆り出されているのだろう。
壁に設置された大きな液晶画面が、都内のエリアストレスを数秒間隔でランダムに表示していく。
今のところ、俺達執行官に出動命令が下されそうな警報は見当たらない。
平和なときには何もせず、物騒なことが起こってから初めて動くことができる。
この仕事は、そういう仕事だ。
時代は上限なき進化を遂げた。
以前は物事が保証されず、自己責任で何もかもを選択していたので、多くの人間は常に不安定な生活を営んでいたという。
故に争いも絶えなかったという記録が残るのみで、俺はそんな社会とは縁遠い人間だ。
物心がついた頃には既にシビュラシステムが絶対とされ、神託の巫女は世間に浸透しきっていた。
人間の能力は細部まで数値化され、適性と判断された職業に就き、適性と見なされた配偶者と結ばれる。
勿論それを拒むことはできたが、誰もがシビュラシステムを疑いもしなかった。
神託通りに生きたなら、幸せな一生を全うできる。
誰もが望んだ未来は揺るぎない秩序と共にあり、この世界は理想とされる社会に最も近いと持て囃された。
『成しうる者が為すべきを為す。これこそシビュラが人類にもたらした恩寵である』
確かに犯罪は減り、歴史上におけるどんな時代より安全が保障された世界で人々は生きている。
しかしその謳い文句は、俺からすれば何か大切なことを隠蔽するための狂言にしか聞こえなかった。
俺のデスクは書類や参考資料が無造作に積み上げられているせいでいつも散らかっている。
そのせいで、一昨日の晩タブレットにコーヒーを零してしまい、今は予備のタブレットを使っていた。
最新型のモデルではないので反応はあまりよくないが、文句を言っている場合ではない。
今日中に片付けてしまわなければならない報告書が、あと三件も残っている。
もし出動命令が出たなら、まず間違いなく勤務時間内に事務処理は片付かないだろう。
だが、それは徹夜すれば済むだけの話でもある。
部屋に帰ったところで、どうせトレーニングくらいしかすることがない。
そういう理由から複数案件の並行処理を進んで行う俺のサイコパスは、この三年間いつも濁っていた。
溜まった仕事を黙々と片付けているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。
今日は珍しく無事に終わりそうだ、そう考えながらコーヒーでも買ってこようかと立ち上がったときだった。
通報を知らせるアナウンスがけたたましく鳴り響き、タイミングがいいのか悪いのかギノがフロアへ入ってくる。
「今日は一日静かだったのに…ギノさんってば疫病神?」
縢が悪びれずに悪態をつけば、ギノは眼鏡のレンズ越しに縢を睨みつけた。
「廃棄区画でストレス警報が出た、全員準備して車に乗り込め。揃い次第、車を出す」
「ギノさんは?」
「俺は先に現場へ向かう」
「何かあったんですか?」
「本日付で一係になった新人を出迎えなければならない」
縢と六合塚の問いに、ギノは簡潔な返事をする。
上司と部下の関係と言えど、二人共遠慮を知らない。
そんなコイツらの関係は、見ていて飽きないものだった。
「新人…?」
「一係専属の監視官、オマエらの飼い主が増える。そういうことだ」
「女の子っすか?」
「関係ないだろう」
ギノに冷たくあしらわれた縢は、唇を尖らせ露骨に不満を表した。
「ギノさん機嫌悪くね?」
「いつものことでしょ、それにあの調子だとあんたの予想は多分正解よ」
「マジで?可愛い子ちゃんかー、たまんないな」
「鼻の下伸びてるけど」
縢と六合塚のやりとりを聞きながら全員でバンに乗り込むと、すぐに扉は閉ざされた。
車と言っても、所謂囚人護送車だ。
潜在犯と一緒に車に乗るのは当たり前、外は見えず、中は執行官達が互いを監視し合うよう向き合って座る作りになっている。
フロアには外の光が一切差し込まないのでわからなかったが、さっきほんの一瞬吸った外気は湿気をかなり含んでいた。
「こりゃあひどい天気だな」
「とっつぁんもそう思うか」
「足元が悪いだろうよ、今回のヤマがあの場所でよかった」
あの場所。
足立区の廃棄区画。
シビュラシステムを拒んだ人間、もとい神託の巫女からロクな未来を約束されず弾かれた人間が集まる地域。
元々は工場跡地や住宅密集地だったであろうそこは、老朽化が進んだ建物が建ち並ぶ、光の差さない場所だ。
余裕ありげな笑みを浮かべたとっつぁんは、両手を組んで目を閉じている。
おそらくこれから始まる滑稽な捕り物劇を想像しているのだろう。
飼い主が猟犬を使って狩りを行う、端的に言ってしまえばそれまでの話だ。
獣の勘に過ぎないが、今回の事件から残虐さは感じられない。
今まで数多くの事件と向き合ってきたが、あのときほど犯罪係数を逆撫でされる話には未だかつて巡り会ったことはなかった。
三年前のあの事件に決着をつけるまで、死ぬわけにはいかない。
その執念だけが、いつだって俺の身体を突き動かす。