MONSTER

□abnormalize or normalize
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迷える羊は儚い正義の夢を見る。





仄暗いそこは、五感が全て遮られた場所だ。

獣の勘は意味を成さず、私はただ呆然と立ちすくむしかない。

足元だって見えなければ、膝は小刻みに情けなく震えている。

一歩先に進めば奈落の底まで沈みそうなほど危ういここで、私は何かを待っていた。

気が遠くなるくらい時間が流れた気もするし、まだ数分しか経っていない気もする。

感覚なんて、ここではそれくらいあてにならない。

途方にくれた私がその場に座り込むと、目の前に白く細い手が差し出される。

滑らかで冷たい指先から、ほんの少し甘くて愛しい匂いがした。

手を伸ばして触れ合った先に、何が待ち構えているのか。

知りたいという単純な欲求に煽られてしまえば、私の手は一瞬で闇へと引きずりこまれる。

そのとき、私を呼ぶ声がした。



名前。

魂を現実に留める言霊。







「陽本香月さん、おはようございます」

「…おはよう?」

「現在の時刻は午後五時五十分です。東京、新宿区の天気は雨、気温は…」

「ああ、大丈夫だから」

「本日の陽本香月さんのサイコパス色相は」

「もういいって」

顔のないふわふわとしたそれが機械的に言葉を続けようとするのを遮れば、辺りは再び静かになった。

音声をオフにするだけでこんなにも違うのかと思いながら、両手に乗るくらいの小さなものを撫でてみる。

当たり前だけど、ホロでできているそれに触り心地などない。

「おはよう、じゃないでしょ」

不規則な生活を送る私に合わせて、ご主人様が起きたときがこの子にとっての朝らしい。

二本の触角を指で柔らかくなぞらえると、触角はそれぞれぴくりと反応する。

実際に触れもしないのに、よくできたものだ。

「…でも、ありがとね。アンジュ」

「お役に立てて光栄です」

アンジュは羽を動かしながら、決まり文句の返事をした。

礼を言われたらこう返す、そんな単純なプログラムの再生を今まで何度耳にしたかわからない。

アンジュはクリオネという生き物を形取ったホロだ。

本物のクリオネなんて見たこともないけれど、以前古びた海洋図鑑で目にした姿がやけに印象的だったのを覚えている。

透明な身体と赤く小さなハート型の内蔵が可愛らしいのに、捕食するときの様子は容赦ない。

あまりにもアンバランスな特徴は、不完全で未知の生き物らしさに溢れている。

古い型式のホロアバターで、最新のものと比べれば機能面で劣るけれど、今までずっと一緒だったアンジュには愛着が湧いていた。

海水の中でしか生きられないクリオネとアンジュはある意味似たもの同士だ。

アンジュはいつでも私の部屋の中でふよふよと宙に浮かぶことしかできず、外の世界を一切知らない。

自由なのか不自由なのか、アンジュ自身もわかっていないだろう。



手の届かない自由を思うことと、何も知らないまま不自由な生活を送ること。

どちらが幸せなのか、少なくとも私は知っているつもりだ。







髪を掻き上げながら身体を起こせば、大袈裟な音を立てて本の山が雪崩を引き起こす。

どうやらまた、本を読んでいるうちに床で眠ってしまったらしい。

今では珍しくなってしまった紙の本は、無造作に積み上げられている。

両脇は天井近くまで迫る本棚で、常に圧迫感が漂っていた。

本を適当にどかして立ち上がりながら、これから何をしようか考えてみる。

今日は非番で予定もない。

この本の山を整理するか本を読むくらいしか、私がしたいこともできることもないのだ。

人に会う予定はないけれど、せめてシャワーくらいは浴びたほうがいいだろう。

欠伸を噛み殺して背伸びをすると、骨はみしみしと音を立てた。

薄暗いこの部屋が私の世界の半分を占めていて、残り半分もそう遠くないところにある。

まだ夢見心地なのか、頭の中に靄がかかったような不安感が拭い切れない。

どうして私はあんな真っ暗なところにいるのか、迎えに来てくれたのは誰なのか。

私を呼ぶのは誰なのか。

耳元にそっと手をあてがえば、冷えた指先が肌に凍みて、思わず肩に力が入る。

ぼんやりとした記憶は漠然としていて、信憑性も殆どない。

ただ一つ確実なことがあるとすれば、私は夢を恐れると同時に、夢の続きを求めているという思考だけだ。







薄暗い部屋の中で、ふいに手元のデバイスが光る。

けたたましいコール音と一緒に表示されたのは、綺麗なブロンドの髪に紅い口紅が映える顔だった。

「志恩さん?」

「香月ちゃん、非番なのにごめんねぇ」

「…出動要請ですか?」

「そう、香月ちゃんを現場に呼んでほしいって。もう車は用意してあるみたいよ、これがデートならいい話なんだけど」

「あの人とデートだなんて、」

「嫌?」

「いいえ」

お互いに笑いを堪えてから、私は小さな溜め息を吐き出した。

よかった。

これで今夜は過去と向き合わずに済む、夢の続きから逃げられる、と。





「行きます」




   
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