MONSTER
□錆びた月
2ページ/5ページ
分析官ラボは常に薄暗く、官能的な香水の香りが漂っている。
パウダリーで女性らしさが感じられるそれは、志恩さんが愛用しているオンブル・ローズのミドルノートだ。
デスクの片隅にいつも置かれているボトルはアール・デコ調で、磨りガラスの容器はどこまでも優雅に作られている。
トップノートはアイリスやイランイランで華やかに、ラストノートはサンダルウッドやムスクでセクシーに。
どちらも志恩さんを連想させる、媚薬めいた香りだ。
学園内部の見取り図は予想以上に細かく、一部に目を通しただけでも真夜中になってしまった。
膨大なデータベースから学園関係者の個人情報ファイルを作成した六合塚は、分析官ラボでカップ麺を食べている。
彼女の向かい側では、志恩さんがメンソールの煙草を吸いながら六合塚の食事を見守っていた。
二人の横にいる私はどう考えても邪魔者なのに、空腹に負けて志恩さんに渡されたカップ麺を受け取ってしまう。
既にお湯が注がれているそれを一瞥した志恩さんは、そろそろ丁度いいんじゃないと割り箸を差し出してくれた。
「ありがとうございます、いただきます」
「最近ラボも随分賑やかになったわ。この前、朱ちゃんもここに来たわよ」
「そうなんですか…」
「今回もなかなか不可解な事件だけど、早速徹夜か。宜野座くんは美肌の敵ね」
「被害者はアナログな校風で有名な桜霜学園の生徒です。支給される教科書は所謂紙の本で、電子書籍は一切使われていないとか」
「今時珍しく深窓の令嬢でも養成しているつもりなのかしら。何だかいやらしい話ね、弥生」
「勤務中は名前で呼ばないで」
「あら、冷たい」
平然とした態度の六合塚を横目に、志恩さんはメンソールの煙草を灰皿に置いてマニキュアを塗り始める。
真紅のそれは、彼女の艶めかしい指先によく似合っていた。
「でもちょっと待って、そこって確か」
「…藤間幸三郎の勤務先でした」
そう話した私は、次の言葉を見つけられないままさりげなく俯く。
カップ麺の味がわからないのは、香水と煙草の匂いがきついからだけではないだろう。
「香月ちゃんは標本事件についてどの程度知ってる?」
「事件発生当時は執行官ではなかったので…現存するデータベースをかいつまんだ程度です」
「そうよね。あれだけ出来のいいプラスティネーションを仕上げられる専門家なんて殆どいないはずなのに、犯人を追いつめるのが難しくて」
プラスティネーション、生体標本の作製方法の俗称。
死体に樹脂を浸透させ、保存可能な標本にする技術。
本来は遺体の水分と脂肪分を一度抜ききってから樹脂を染み込ませるので、仕上げるまで一ヶ月はかかるという手間のかかった技。
それが特殊なポリマー剤によって最短数日で可能となったと言われている。
誰が何の目的でそんなものを開発したのかもわからないし、殺人の動機も未だに疑わしい説しか存在しない。
それでも、この事件は表向き収束している。
当時桜霜学園の教師だった藤間幸三郎を犯人と断定し、詳細は調査中という文句付きで闇に葬られたままだ。
カップ麺を咀嚼し終えた私は、汁を残したままテーブルに容器と箸を置き、姿勢を正した。
いくら人と関わらない生活をしているとはいえ、頼み事の仕方位心得ているつもりだ。
「それで志恩さんにお願いが…」
「こういうことに積極的な香月ちゃんも可愛いじゃない。何だか嬉しくなっちゃうわ。いいわよ、何でも言ってちょうだい」
「ありがとうございます。…単刀直入に言います、桜霜学園の過去三年分の生徒や職員の鍵付きデータベースをハッキングできますか?正規のルートではわからない、犯罪予備軍の事件まで記載されたものです。文部省が一括管理をしているかと」
「んー、できないわけじゃないけど…三年っていうのは」
「標本事件との関連性を調べるためです」
仮に今回の事件が標本事件と無関係だとしても、狡噛は黙って引き下がらないだろう。
真実まで辿り着くには、時として他人に呆れられる程の執念も必要だ。
マニキュアを塗る手を止めた志恩さんは、速乾性のあるそれが乾くのを確かめつつ、メンソールの煙草に火をつける。
目を細めながら笑う彼女は、相変わらず憎めない雰囲気を持っていた。
「…香月ちゃん、ちょっぴり佐々山くんに似てきたわね」
「佐々山に?」
「そう。彼にお尻を触られるのは御免だけど、香月ちゃんが触ってくれるならいつでも歓迎するわ」
「志恩」
「冗談よ、弥生。妬かない妬かない」
六合塚を宥めた志恩さんは数分もしないうちに圧縮ファイルを作成し、私のデバイスに転送してくれる。
「ありがとうございます。それと、カップ麺ごちそうさまでした」
立ち上がってから頭を下げ、ラボから出ようとする私に、志恩さんはひらひらと軽く手を振った。
「慎也くんにもよろしくね」