MONSTER

□人魚の鱗
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「いつ来ても汚い部屋だな、人が住む場所とは到底思えない」

「…普通はもう少し遠回しな言い方をするんじゃないの?」

「俺は事実を述べたまでだ」

空想も現実も、招かれざる客は突然現れると相場が決まっている。

眼鏡のレンズ越しに部屋の隅々まで見渡すギノは、本や机に埃が積もっていないかチェックする厳しい母親同然だ。

遠慮のない物言いに思わず肩をすくめながらも、反論する気は全くない。

要塞っぽく床に積み上げられた本の山と飲みかけのコーヒー、放置された栄養補給ゼリーの空パック。

ワイシャツやパンツスーツは皺も気にせず脱ぎ捨てたままだ。

最新のシステムを導入すれば、部屋は自動で掃除される。

ただ、私はシステムに頼ってまで現状を変えたいなんて微塵も思っていなかった。

こういうとき、ギノの小言は聞き流すに限る。

そう開き直ってお咎めを待つと、ギノは奥の部屋へと向かった。

「どうしたの?」

「話がある」

「ちょっ…そっちはもっと汚いけど」

「構わない」

構わないも何も、そこは私の寝室だ。

読みかけの本と空のペットボトル、毛布やシーツが乱れたままのベッド。

どれを見られてもドミネーターで排除される惨事に等しいのに、ギノは部屋の汚さなんて一切指摘せずソファーへと腰かけた。

「座れ」

「…はい」

小さなテーブルを挟んで向かい合うと、ギノはあからさまに私を睨みつける。

「ギノ、一体」

何があったの、と尋ねる前にデバイスからデータ受信通知音が流れた。

送信者は目の前にいるギノだ。

「先日行われた定期検診の結果だ」

「それってもしかして、私のデータも」

「見た。監視官は執行官の健康状態、精神状態の全数値を把握する義務がある」

「体重も?私より先に?」

「当然だ」

「職権乱用してる」

「執行官を監視するのが監視官の仕事だ、好きでやっている訳じゃない」

冷やかし半分の煽り文句でも、冗談が通じない彼は過剰に反応してくれる。

ギノは眼鏡のフレームを合わせ直し、顔をしかめて端末が表示したデータを一瞥した。

データは私の顔写真や名前だけではなく、ありとあらゆる情報が数値化され閲覧できるようになっている。

権限云々の前に人権はどうなっているのかと言いたくても、訴えるだけ無駄だろう。

それが潜在犯、猟犬と称される立場だ。

「陽本の犯罪係数が、規定値を超え始めている」

彼自身が世界の法だと言わんばかりの口調で、ギノは高圧的にそう告げた。

犯罪係数は、彼にとって命そのものに近い。

色相が濁らないよう、どんな任務をこなそうと冷静でいること。

これがエリートコースへ進む最も単純かつ難しい条件だ。

「元々潜在犯なのに、規定値も何もないと思うけど」

「見過ごしていたら悪化する一方だ、早めにセラピーを…」

「大丈夫だって」

「呑気なことを言ってる場合か。このまま犯罪係数が上昇し続ければ、執行官の立場すら失うぞ」

「それはそれで仕方ないんじゃない?」

「ふざけるな」

できるだけ飄々と答えれば、ギノは嫌悪感を露わにした。

表情は険しくなり、苛立ちも隠し切れていない。

眉間の皺も深く、折角の端正な顔も台無しだ。

彼が執行官を嫌う理由は知っている。

今より少し前の時代、警察という組織が実在した頃。

ギノの父親は警視庁の刑事として休みなく働いていた。

しかしシビュラシステム構築後、警察制度自体が廃止となり、全国民の犯罪係数は徹底的に調査された。

警察も例外ではなく、その結果犯罪と隣り合わせの刑事達は次々に潜在犯と判定され施設送りになったという。

勿論、彼の父親も。

当時は犯罪係数が遺伝するか否かの学説も不確かだったため、潜在犯の家族まで潜在犯同様の差別を受けたと聞いている。

潜在犯の家族は罵られ侮蔑され、過酷な扱いをされたという惨事が各地で起こっていたらしい。

今でも潜在犯を家族に持つ一般人への偏見は残っているが、過去の記録も通常のデータベースからは閲覧できなくなりつつある。

紙の本の内容も取り締まりが強化され、今は事実を知る人間も少ない。

あらゆる文献を集めている私ですら、その類の書籍はまだ手にしていない位だ。

歴史を知る。

シビュラシステムが浸透する前は当たり前のようにできたことが、何より難しくなってしまった。

史実が塗り替えられていくことに少しでも意義を唱えれば、あっという間に隔離され、逆らわないものだけが正常と見なされる。

この完璧な社会に対して疑問を抱けば、サイコパスはすぐに濁ってしまうだろう。

それでも、私は怪物と隣り合わせの場所であることを行っていた。

こっそりと人目につかないよう、玩具箱に秘密の宝物をしまい込む危うさで。



今でも時々思い出す、本の山と古紙の匂い。

あの男の、冷たい手。



「ふざけてないよ、ギノ。大体、執行官が問題を起こして施設送りになるなんてよくある話だし」

「…一係は人手不足だ、執行官の適性だって簡単に出るわけじゃない」

「猟犬の管理も飼い主の仕事ってこと?」

「お前は、」

勢い余った私は安っぽい挑発までしてしまう。

厳密に言えば挑発ではなく只の疑問だけど、今のギノには嫌味にしか聞こえないだろう。

建前と本音をうまく使い分けられれば、もっと生きやすいはずなのに。

内心そう思ったものの、流石に口にはしなかった。

ギノは言葉を飲み込みながら、強く手を握り締めている。

可愛げがないとでも言いたげな眼差しは普段よりも一層鋭い。

躾と言って殴りつけられる飼い主なら、猟犬だってもう少し忠実になったかもしれないのに。

詰めが甘い、と心の中で悪戯っぽく呟いてみる。

やっぱりギノは監視官だ。

シビュラの恩恵を受ける側の、ごく普通でまともな人間。

猟犬のように同じ獣の匂いがするかどうかで相手を区別したり、咄嗟の判断で軽率な行動を取ったりしない。

この世界で生きるなら、本来そう在るべきだ。







時間が経つのがやけに遅く感じられる。

そんな中沈黙を破ったのは、私でもギノでもなく隣の部屋からやってきたアンジュだった。

「陽本香月さん、あと十分で出勤時間です」

「…ああ、ありがとう。ギノも遅番だっけ?」

ギノは返事をしないまま立ち上がり、勝手に部屋を出ていってしまう。

彼の背中を見送れば、通路を颯爽と歩くギノは刑事課のフロアへと向かっていた。

「…せめて働き終わってから言ってほしかったな」

「宜野座伸元さんですか?」

「そう、素直じゃないのは遅れて来た反抗期かもね」

アンジュは私の言葉に答えるでもなく、ただ傍にいてくれる。

最新型のホロアバターだとこうはいかないだろう。

反抗期の意味を辞書に沿って述べた挙げ句、見解まで話し出しかねない。

その点、アンジュは人間より人間らしい部分がある。

無言の時間を共有できる相手は大切にしたほうがいい、それがアンジュのプログラムかつ私の経験則だった。









   
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