MONSTER
□やわらかな傷跡
1ページ/5ページ
運命論を否定して、意思論を提示して。
自由と見せかけた不自由さに縛られる。
標本事件が大詰めを迎えた、三年前の冬。
当時チームを組んでいた佐々山と連絡が取れなくなった。
正確に言えば、俺があいつを止めきれなかった。
己に厳しい人間でありたい。
そんな意識は少なからずあったのに、肝心なところで情を優先してしまった。
いくら悔やんでも仕方ないとわかっていながら、幾度となく佐々山の背中を思い出してしまう。
あのとき引き金を引いていれば、飼い主として猟犬のリードを手放さなければ。
撃たれる相手の痛みを想像した時点で、パラライザーさえ凶器へ変わる。
初歩的な過ちを犯した俺は、監視官とはとても言えない勝手な行動を繰り返し、同期であるギノを振り回していた。
薄汚れた路地裏を走る度、異臭とも腐臭と例えがたい匂いが鼻につく。
大して動いたわけでもないのに、荒い呼吸で肩を震わせ、妙な汗が額を伝った。
身体に馴染んだはずのスーツは煩わしく、耳に装着した通信機から届くギノの声もやけに遠く感じられる。
「シェパード2、先行しすぎだ!今どこにいる?」
「ハウンド4が、佐々山が見つからない…どうなってる?あいつはどこに行った?」
執行官の一人である佐々山は、三日前から行方不明だ。
俺と二人で容疑者を追跡中に失踪し、今日になって突然この地域で佐々山のドミネーターの反応が出た。
ここまで追いつめられると、最早嫌な予感しかしない。
希望的観測を持ちにくい仕事だとわかっていたが、これほど絶望したことは今までなかった。
ギノと俺は現場に着いてからずっと押し問答をしている。
「落ち着け狡噛!状況が掴めない、一旦戻れ!」
「俺が佐々山を連れ戻す、きっとこの辺りのどこかに佐々山が…」
誘いの手に乗るなと咎める声が通信機から聞こえたが、気にしている暇はない。
追わなければ。
俺が佐々山を見つけなければ。
苛立ちと焦りは加速し、舌の根も乾いてしまう。
ドミネーターを片手に、入り組んだホログラム・イルミネーションの隙間を通る俺は、明らかに平常心を失っていた。
ここにいるのは事件の黒幕を暴こうとする監視官でもなければ、部下の動向を注意する上司でもない。
親しい人間の無事を祈る、只の男だ。
やがて、広告セットの裏で祭壇の如く複雑に組み立てられた不審物を見つける。
ゆっくりと近づけば、それは人間の足や手が有り得ない配列で固められた何かだと理解できた。
切断された頭部に、くり抜かれた眼球の代わりとしてはめられた金色のコイン。
息を飲むなんて例えでは到底足りない。
心臓が止まるどころか、跡形もなく押し潰されそうだった。
目の前にある、この物体は。
「…佐々山?」
「―っ!」
見慣れた天井が目に入った瞬間、全身がびりびりと痙攣する。
ワイシャツは寝汗でぐっしょりと湿り、喉は干からびそうなほど潤いを失っていた。
「…夢か」
呟くことで確かめる。
まだ生きなければ、と。
荒い呼吸を沈めるため、細く深く息をする。
夢だからといって笑い飛ばせる話でもない。
どんなに認めたくなくても、あれは払拭できない事実だ。
ソファーから起き上がり、無意識のうちに煙草を一本取り出して火を点ける。
こういうときに口元を遊ばせてはいけない。
言葉にすれば、感情は一瞬で言霊へと変わってしまう。
陽本からそう聞いたのも、確か三年前だった。
部屋の奥の壁には、貼り出された資料や写真、手書きのメモがずらりと並んでいる。
多くは過去の未解決案件に関するデータだが、一枚だけ異なるものがあった。
スナップショットの前で立ち止まり、煙草の煙を天井に向かって押し出せば、煙はゆらゆらと流れていく。
数十年前までは、死者へ線香を供える習慣があったらしいが、佐々山なら煙草にしてくれと皮肉るだろう。
写真を前にして、ぼんやりとフィルターを口に運ぶ。
煙を吸って吐くだけの単純な行為に、今までどれほど救われたか。
少し離れたところでお情け程度に写っている俺と、目線をカメラのレンズに合わせて悪ガキのような笑顔を浮かべる佐々山。
二人で撮った写真はこれしかないと知ったのは、随分後になってからだ。
飽きるほど毎日隣にいたのに、いざ佐々山の痕跡を探すと、恐ろしいほど何も残されていない。
こんなことになるなら、ちゃんとした写真をホログラムカメラで撮っておくべきだった。
日常の記録なんてあってもなくても、日々は止まらず進んでいく。
そう信じて疑わなかったあの頃の俺は、一体どこに消えてしまったのだろうか。