MONSTER
□やわらかな傷跡
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くるくると回りゆく歯車に身を委ねる。
どんな運命でも受け入れるふりをして。
忘れた頃にやってくる、望まない過去の夢。
降り続く雨の音は柔らかく鼓膜を覆い、冷え切った爪先はすっかり感覚を失っている。
漆黒の傘を差して薄暗い裏通りを歩く私は、ぼんやりと足元を眺めていた。
夜の帳は世界を等しく包み込む。
尊いものも醜いものも、闇の中で息を潜めてしまえば皆一緒だ。
辺りに人の気配はなく、街の喧騒からもかけ離れている。
数日前に起こった出来事が、未だにうまく飲み込めない。
親しい人間が死んだ。
寂しい、悲しいと思う余裕はなかった。
現実味のないやるせなさだけが、頭の中をひたひたと支配する。
いくら拒絶したところで現状は変わらないし、納得できなくても反論なんて見当たらない。
鉛色の雲は空一面に広がり、雨粒はアスファルトにぶつかって弾け飛ぶ。
この天気と似た涙を流してもおかしくないのに、どういうわけか私の目は乾いたままだ。
目元を拭っても、指先は濡れない。
苦しみを形にできない性格を呪いたかった。
吐き出せない毒を自ら消化する作業は、想像以上に残酷だ。
湿気を含んだ空気は呼吸を徐々に重くする。
時間が私を置いていってしまう。
信じられないし信じたくもない、それでも結果をこの目で見てしまった以上逃げられもしない。
現実は小説よりも奇なり、まさにそんな言葉が相応しかった。
私のちっぽけな脳は、事実を受け入れるための許容量に到底満たない。
悪夢のような記憶が、瞼の裏ではっきりと再生される。
何度も繰り返されるそれは綺麗なまま、決して色褪せてくれない。
人間の生き方は、法と秩序を司る女神が決める。
ただし、決められた人生を幸せだと思えるかどうかは、あくまで本人次第だ。
最善を尽くしても幸せになれないことがある。
サイコパスが濁らなくても、犯罪係数が上昇しなくても、シビュラシステムが示した通りに生きていたとしても。
回避できない問題を、否定できない現実を、全て認められるようになるまで一体どれくらいの時間がかかるのだろうか。
後頭部の辺りで、ずきずきと鈍い衝動を覚える。
頭が痛い。
身体の不調なんて今までなかったのにと不安を感じつつ、足取りは次第に鈍くなっていく。
どんなに無茶をしても色相が濁ることがないからといって、私自身を過信していたのかもしれない。
帰ったら久しぶりにメンタルケアをしよう。
そう決めてしまえば、心なしか急ぎ足になった。
マンション近くの交差点には、誰の姿も見当たらない。
青信号はさめざめと前進を促している。
左右の確認なんてしなくても、自動車が突っ込んでくる可能性はほぼゼロだ。
電気自動車は一昔前と違って歩行者を認知し、衝突を回避するプログラムが組まれている。
どこまでも安全な、無菌の砂場にも似た世界。
檻なのかゆりかごなのかわからない場所で、私は何も警戒しないまま生きていた。
頭の奥で鳴り響く警鐘を聞かないよう、頑なに耳を塞ぎながら。
「おはようございます、陽本香月さん」
「…ん」
ベッドに突っ伏したまま、呼びかけられて目を覚ます。
また、あの夢だ。
昔の夢を見た日は何時間眠っても疲れがとれない。
中でもこの夢は特別で、身体を起こしても妙な気だるさが残ってしまう。
これからどうなるのかわかっているのに、夢の中の私は身体を動かそうとしない。
何もできず、運命に引っ張られ、流れに逆らえない無力さを背負う羽目になる。
あの日、雨に濡れた私は何を求めていたのだろうか。
ふと目をやると、手には今朝読み終えた本があった。
アルチュール・ランボーの地獄の季節にある一節は、頭の中にうっすらと残っている。
「“俺達は清らかな光の発見に心ざす身ではないのか、―季節の上に死滅する人々から遠く離れて”…だっけ」
秋を詠った言葉は、どんな思想を訴えようとしているのだろう。
「…何なんだろうね、アンジュ」
アンジュはふわふわとベッドの上を行き来して、私の様子を窺っている。
「今、何時か教えてくれる?」
「午後四時半です」
「あと三十分か…間に合うかな」
非番でも慌ててベッドから飛び起きた私に、アンジュはごく単純な問いを投げかけた。
「本日はお休みのはずですが、ご予定でもありましたか?」
「デートの約束」
「デートですか」
「そう、秀星と飲むの」