MONSTER
□散りゆく空言
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理想を追いかけ、現実に追われて。
一体何を犠牲にすれば、錆びた銃口が唸るのか。
六本木のクラブ「エグゾゼ」で行われた張り込みは、結果として一斉摘発まがいの惨事になってしまった。
居住者が行方不明となっていたマンションの一室で見つかった、遺体の断片。
DNA鑑定後、解析データはそれを葉山と断定し、一係は葉山のアバターであるタリスマンを追って今に至る。
オフ会でタリスマンと接触を試みるという常守の提案は悪くなかったが、どうやら相手が一枚上手だったらしい。
あの場にいた全員のホロコスを瞬時に変えてしまうなんて、誰も想像していなかった事態だ。
もっともそのおかげで、少なくとも相手方には相当な腕前のハッカーがいるという憶測だけは立てられたが、代償は大きい。
アバターを動かしている人物を検挙できなかった時点で、こっちの負け戦は確定してしまった。
おまけに混乱の最中で常守はとっつぁんに締め上げられ、陽本は何者かに首を強打されたらしく意識を失っている。
常守と陽本を連れて現場から引き上げると、医療用ドローンが公安局の地下入口で俺達の帰りを待ち構えていた。
二人をストレッチャーで運んでいくドローンを見送っていると、とっつぁんは頭を掻き毟りながらバツの悪そうな顔をする。
「悪いことをしちまったなぁ」
「何が起こるかわからないのが現場だろ。大体、常守はこんなことでとっつぁんを恨んだり、弱音を吐いたりするやつじゃない」
「随分過信してるな。コウはむしろ陽本のほうが気がかりか」
「…あいつは執行官だ、心配いらない」
「だからこそ先行きが怪しい、陽本は執行官をやるにしちゃ素直すぎる」
流石とっつぁん、とでも言うべきか。
懸念していたことを容易く当てられてしまった俺は、さりげなく話題をすり替える。
「どうかな。ギノは陽本に散々手を焼いているぞ」
「伸元は人の扱いがうまくない。監視官をやっていられるのが不思議なくらいだ」
「犬好きでも猟犬は別か」
「だろうな」
苦笑いを浮かべて目を細めたとっつぁんは、そのまま自動ドアを潜り、公安局へと入っていく。
とっつぁんから見れば、陽本は娘のような存在なのかもしれない。
酒を飲むと機嫌よさそうに、『息子が一番だが、娘も一人欲しかった』なんて言い出すくらいだ。
そんなとっつぁんだけではなく、誰の目から見ても、陽本は執行官向きと言えない性質を持ち合わせている。
だが、シビュラシステムは彼女に執行官の適性有りと判断を下してしまった。
彼女が執行官として働く上で最大の壁となる、平凡な優しさを無視したままで。
陽本は常に飄々と振る舞っているように見えるが、精神的には脆い部分も持ち合わせていて、能力も安定しない。
そんな人間が犯罪を突き詰めていけば、結果は一つだ。
いくら多少の犯罪係数の上昇は容認される潜在犯でも、場合によっては施設へ送り返されるか殺処分となる可能性もある。
俺は陽本の酷い末路を確かめたいわけじゃない。
佐々山の忘れ形見が壊れないよう密かに見守る、それだけだ。
その日、コミュニティフィールドのブーギーガーデンにはファンが集まり、スプーキーブーギーを叩き上げた記録が残された。
エグゾゼ帰りの人間だけではなく、イベントに参加していないファンまでも、スプーキーブーギーへの怒りを見せる。
唐之杜曰く、この手の裏切りはネット上ではよくあることらしい。
挙げ句の果てにタリスマンにまで非難されたスプーキーブーギーは逃げるようにログアウトし、そのまま姿を消してしまった。
「うーん…ここから先は朱ちゃんがスプーキーブーギーとコンタクトを取れるかどうかだけど」
ラボにはメンソールの煙草を遠慮なく吸い続ける志恩と、スピネルのフィルターを咥えた俺の二人しかいない。
甘い匂いの煙を吐き出す唐之杜は、横目で医務室の中へと視線を向ける。
分析室からガラス越しに中の状態が確認できるそこでは、陽本が静かに眠っていた。
一度目を覚ました常守は監視官用仮眠室で休むよう促したので、今日のところはお手上げだ。
志恩はマスカラできっちり囲んだ目を好奇心で一杯にして、立ったままの俺を見上げる。
「香月ちゃんは最近寝不足みたいじゃない?このまま寝かせてあげようか」
「…で、何で俺を見るんだ」
「慎也くんてば、わかってるくせに」
愉快げな志恩は、マルチディスプレイに陽本の寝顔やありとあらゆる身体数値を表示させる。
「気を失っているだけで特別深刻な数値を記録した箇所はないから、目が覚めればそれで問題ないわよ」
「そうか」
「…でも、香月ちゃんがこんなことになるのは珍しいかもね。危険回避は得意なはずなのに」
志恩は首を傾げながら、陽本が過去にラボの世話になった回数を検索し、液晶画面に映し出した。
「ほら、少なくとも慎也くんよりは怪我の頻度も全然少ない」
「俺と比べなくていいだろ」
「これでも心配してるのよ?香月ちゃんは呼び出しがかかると非番でも『行きます』って即答して出てっちゃうんだもの」
「行ってきます、じゃないのか?」
「そう。『行きます』だなんて、帰ってくる気がないみたいで」
「…俺には『行ってきます』だぞ」
何の考えもなく事実を述べると、志恩は人をからかう目で笑う。
「ちょっとぉ、いつのまにおねーさんに内緒でそんな関係になっちゃったわけ?」
「何言ってんだ」
「あーやだやだ、煙草ももうないし。部屋まで取りに行ってくるから、慎也くんは留守番よろしくね」
露骨に溜め息をついた志恩は白衣を翻し、颯爽とラボから立ち去っていく。
あの調子だと、しばらく戻らないつもりだろう。
医務室に入ると、旧式のファンが空気を混ぜる音と陽本の小さな呼吸は細々と耳まで届く。
これは子守唄だ。
人間の寝息は眠気を誘う、ずっと前に陽本がそう言っていたのを思い出す。
少々詩的なことを呟く表情は、潜在犯になる前と何等変わりない。
だからこそ、こいつが執行官に向いているのか他人事ながら悩んでしまう。
殺さなければ殺されるという考え方を、陽本は極力避けているに違いない。
潜在犯を前にして、最終的に『どうしたらいいか』はドミネ―ターが決めることだ。
ドミネ―ターの引き金を引く、引かないという選択肢に執行官の感情を介入させるべきではない。
しかし、陽本は言葉にしなくても、己の意志をどう扱っていいのか迷う節がある。
考え事が苦にならないのは、彼女の性格が起因しているのだろう。
シビュラシステムの神託を疑う常人は殆どいない。
勿論、とっつぁんのように多少なりとシビュラの判断に不満を抱いている人間はいるだろうが、結局はこのシステムが国の中心だ。
従う以外に、道などない。
ベッド脇に立ったまま、眠っている陽本の額に手を伸ばす。
目元の髪を指先で掻き分けてやると、陽本は一瞬眉間に皺を寄せたが、相変わらず目覚めなかった。
エグゾゼでタリスマンを捜している最中に、混乱に乗じた何者かがこいつの首を強く打ったらしい。
背後から手刀で素早く急所を突かれたようだと、陽本の診察を行った志恩は電子カルテにデータを書き込みながら説明した。
素人がそんなことを簡単に行うのは難しいという意味で、体術に優れた人間も今回の一件に関わった可能性は高い。
だが、陽本が公安局の人間故にこんな目に遭ったのか、他に理由があるのかまではまだ断定できなかった。
仮にそうだとしても、ある程度確実な考察が完成するまで、この話は公にしないほうがいいだろう。
日頃からあまり眠ろうとしない陽本が眠り続ける気なら、今はこのまま寝かせてやりたい。
そんな思いから、物音を立てないよう注意しつつラボへと戻る。
本に埋もれて浅い眠りを繰り返す今のこいつに必要なのは、心身の休息だ。