MONSTER
□散りゆく空言
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甘い地獄と苦い天国、葬られるならどちらがいいか。
遥か彼方から迫り来る、子守唄に似た生温い夢。
執行官になる前の平凡な記憶は、いつも忘れた頃に思い出された。
煉瓦で作られた塀には深緑の蔦が蔓延り、敷地内が見えないようになっている。
古風な仕様の洋館めいた建物には、見た目と異なる最新の設備が登載されていた。
自動認証システムに導かれ、地下へと進む階段を降りる過程は何度繰り返したかわからない。
長い廊下といくつもの扉はどれも変わりなく、間違って他の部屋に入ってしまいそうになる。
廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まった私は、一呼吸おいてからそれを叩いた。
ノックは二回。
何のルールがあるわけでもないが、勝手にそう決めている。
返事の有無に関わらず、古いものを重んじるその部屋に入る前には、旧式の虹彩認証が必ず行われた。
扉を開ければ、その先で待ち構えているのはおびただしい量の本と圧迫感のある電子機器だ。
環境ホロを使っていないせいで、壁の染みや剥げ欠けた塗装も時々目につくこの部屋は、他の部屋と比べて一層雑然としている。
少し埃っぽい、湿気た紙特有の空気を吸ってはむせそうになる私を、その男は目を細めて眺めていた。
ここに出入りするようになったのは、退屈な教育課程に飽きて授業を欠席したのがきっかけだ。
澄んだ空がやけに果てしなく感じられた、三年前のあの日。
校舎の裏庭で芝生の上に寝転がり本を読んでいた私に、何気なく声をかけてきたのが彼だった。
穏やかな口調と低い声、微睡みを呼ぶ言葉。
『何をしているんだい?』
『…見た通りだけど』
『読書か昼寝か、判断が難しいな』
『両方かも』
『その本は?』
『ああ、これは…』
「―っ!」
顔面で見開いていた本をどかそうとしたところで、唐突に目が覚める。
掌と背中には気持ち悪いほどじっとりと汗をかいていて、呼吸が速い。
「夢か…」
夢でよかったと喜ぶべきか、夢に過ぎないと嘆くべきか。
答えは出ないままそっと首元から胸を撫で下ろすと、クロスネックレスの感触が指先に現実味を与えてくれる。
崇めるべき神なんていない。
仮にいるとすれば、それは弱い人間が生み出した虚像だ。
縋るものがなければ溺れてしまう、だから信じたふりをする。
そんな愚かさですら、人間らしくて愛おしい。
救われないと知りながらクロスを触らずにはいられない私も、弱い人間の一人だ。
この世界のあらゆる物事を諦めたのに、何かに縋る気持ちはまだ捨て切れない。
未練がましい思いを抱いて生きる私は、誰が見ても無様だろう。
デバイスを確認すると、アラームが鳴る五分前の時刻が表示されている。
今日は日勤なので、朝から活動する予定になっていた。
どんなに眠くても、疲れていても、時間になれば起き上がって仕事に向かう。
たとえ朝日が差さない部屋に住んでも、習慣は一般人と等しい。
精神を凌駕できるのは、習慣という怪物だけ。
この前読んだ三島由紀夫の本の一説がふいに思い浮かぶ。
誰もが怪物に突き動かされて生きている。
自ら望んだ今日を迎えたふりをしながら。
「また机で寝てたんだ…」
小さく呟きながら姿勢を正すと、背骨に鈍い痛みが走った。
幸い寝違えてはいなかったが、起きたばかりなのに疲労感は残っている。
「おはようございます、陽本香月さん。今日のあなたの色相は…」
「何色でもいいよ。おはよう、アンジュ」
音声を遮って挨拶すると、アンジュは暗い部屋の中を一瞬で明るくした。
ホロアバターのアンジュは、私が目覚めるとこうして照明を準備してはふわふわと宙に浮かんでいる。
「あの夢…もう何回目かな」
過去に縛られてはいけない。
そう意識すればするほど、ある特定の夢を見るようになった。
潜在犯になる前、ごく平凡な人生を歩んでいたときの私に何が必要だったのか。
その答えを教えてくれた人物の顔を見る直前で、必ず目が覚めてしまう。
狡噛と同じで紙の本を好む、変わった男。
たとえ二度と彼に会えないとしても、きっとこの夢とは一生付き合っていかなければならない。
根拠もなくそう思ってしまうのは、私の獣じみた直感のせいだ。