special thanks 2
□君の涙で溺れ死にたい
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いつから溺れているのだろうか。
両足を掴まれ、身動きもできず。
ぶくぶくと水深くへ沈められる。
苦しみの先で待つものを探して。
夜の空気はひやりと冷たく、肌を静かに凍てつかせていく。
気管を通り肺へと吸い込まれていく酸素は、鉄の味がした。
目を開けると、漆黒が視界を覆う。
その闇が天井だと気づくまで、少し時間がかかった。
板張りの床からすきま風が入り込む、古寺の本堂。
寒さが厳しくなるこの時期は、夜の訪れが早い。
闇の色が濃くなった隙をついて、奇襲をかけて。
俺達の思考を察していたのであろう相手が、容赦ない太刀筋を繰り出す。
俺ではなく、コイツに。
戦場に女がいると、否応なく目立ってしまう。
いくら女攘夷志士であるコイツの腕が立つと言っても、所詮「女にしては」だ。
そう揶揄されるのを誰よりも嫌がったコイツの面倒を見たのは、ヅラや辰馬、高杉くらいで。
俺も当然の如く、面倒を見る羽目になる。
足手まといだと思ったことはなかった。
一緒に戦い、死も覚悟し、互いを仲間だと思えるのならそれでよかった。
別に、平和な世界を望んで戦っていたわけではない。
仲間やコイツがいる場所が、たまたま戦場だったから。
コイツが男とか女とか関係なく、馬鹿みたいに幸せだと笑える世界を見たかった。
ただそれだけのこと。
くぐった修羅場の数とかしぶとさとか、当てにならないものを一瞬で信じた俺は躊躇わずに一歩前へと飛び出した。
何も迷うことはなかった。
体勢が崩れていたソイツを乱暴に力一杯蹴り飛ばし、代わりに俺の腹が相手の一太刀を受け止める。
血が足りなくなりながらも根性だけで体勢を立て直して相手を斬り、俺はその場に倒れ込んだ。
ソイツの声が聞こえた気がしたけど、その後のことは何も覚えていない。
そして、今。
片手を宙に伸ばせば、使い古された汚い包帯を巻いた腕が見える。
腹の傷は熱を持ち、ずきずきと鈍く痛み、上半身だけ起き上がるのにも苦労した。
痛みだけが、生の感覚を俺に与える。
「案外死なないモンだな…」
俺の生命力をますます過信する。
なかなか死なない。
まだ、死ねない。
何とか上半身だけ起こせば、真横に雑魚寝みたいな形で横になってるヤツがいて。
「…オマエ、」
白い肌襦袢だけの姿で、寒くないだろうかと見ているほうが焦ってしまう。
ふと俺の腹の辺りを見れば、コイツの羽織やら毛布やらがこれでもかという位重ねられていた。
「あー…これ、アレだろ。風邪引くだろ。」
細々と声を出すだけでも傷は痛み、内蔵の一つや二つ飛び出していそうで。
血が足りないせいか、身体も冷たい。
コイツの頬に触れれば、死にかけたであろう俺以上に冷たく滑らかな肌にぞくっとさせられた。
もうこの世にはいないのではないかと思うほど。
「オイ、」
起きろと言いかけて瞼の下に触れ、次の言葉を飲み込む。
ぺたぺたと水分が指先に纏わりついて、睫毛はぺしゃりと瞼にくっついていて。
普段は気が強く泣き言一つ言わないコイツが、こんな顔になっている。
理由はおそらく、
「…俺のせいかよ。」
コイツのために身体を張ったのは、泣き顔を見たかったからじゃない。
真っ先に浮かんだのは、情けなく言い訳めいた言葉。
しかし次に思いついたのは
「…俺のため、か?」
俺のために俺を思って、コイツがこんな顔になる。
泣かせたいわけじゃない。
けれど、俺の中の深いところがひっそりと囁きかける。
今だけは、俺のものだと。
「…あーもう、しんどいなコノヤロー。」
汚い言葉で悪態をつくのが精一杯だし、力を入れると身体の節々が痛むので無表情にならざるを得ない。
「…オマエさ、こんな無防備でいるなっての。」
再び横になり、コイツと向き合った格好になる。
腕を伸ばせば小さな肩を引き寄せられる距離。
それを更に縮めるため、じりじりと近寄り毛布を掛けてやりながら、丁寧に抱きしめる。
二つの冷たい身体を重ね合わせる。
涙は既に枯れていた。
俺は涙を止めてやることすらできない、どうしようもない男だ。
何人殺しても、攘夷志士を名乗っても、白夜叉と呼ばれても。
コイツに惚れた、普通の男。
そして。
「…溺れさせるなって。」
俺を、この感情を。
コイツの涙を余すところなく掬い上げて、その水に浸かりたいとぼんやり思う。
小さな身体を抱いたまま、二人で溺れてしまえばいい。
時間に、感情に、争いばかりの醜い世界に。
互いの身体が徐々に熱を帯び、夜明けに向かってゆっくりと沈みゆく。
抱きしめ、掬いあげることの意味を知る。
求めて、溺れて、呼吸する。
次に目が覚めたときは、どこに触れて何から話そうか。
そんなことを考えながら、俺はコイツの涙を味わい瞼を閉じた。
Fin