special thanks 2
□いいかげんおやすみを覚えろ
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耳奥で温かく木霊する、安上がりな魔法の呪文。
ペットボトルと調味料、時々魚肉ソーセージ。
真っ暗な部屋で、お決まりの面々は今日も煌々と白く照らされている。
鍵を開け、革靴を脱ぎ、電気もつけずに冷蔵庫の前に立つまでの数秒間。
一日中頭を働かせているからこそ、無心になれるこの時間は貴重だった。
音を立てないよう気づかいながら、フローリングの上を歩いて、ずっしりとした扉を開く。
季節を問わず、ここは俺の終着点だ。
低い音を漏らしながらひっそりと存在する、明るくて冷たい世界。
一人暮らしを始めたとき、この冷蔵庫を買った。
SPという多忙な職種のおかげで、家には寝るために帰ってくるだけでそれ以上は望まない。
そういう意味で、狭い部屋でも冷蔵庫だけはやたら立派だった。
大きなテレビやベッドが欲しいというありきたりな物欲は、どういうわけか芽生えそうもない。
だからこそ、奮発してファミリーサイズの冷蔵庫を買った。
中が食材で溢れなくても、使い道はある。
ほぼ空っぽの冷蔵庫と向き合った俺は、毎晩決まり文句を一つ零していた。
「ただいま」
ごく平凡な挨拶を無言で受け止めた冷蔵庫の中身は、いつも通り変わらない。
毎日自炊する余裕もなく、たまに野菜やら果物やらを買ってきても、食べ切れずに放置したりして結局無駄にしてしまう。
そう悟ってからは、無理に料理することもなくなった。
魚肉ソーセージは同じ班で働いている沖田さんが、なぜか時々差し入れてくれる。
それを律儀に持ち帰ってきては、小腹が減ったときにつまむ位だ。
冷蔵庫を閉め、テーブルの上に置いたコンビニの袋からあんぱんと牛乳を取り出す。
警護の合間に食べようと思っていたが、休憩時間が作れず、食べられないまま持ち帰ってきてしまった。
食事を抜く、これもよくある話だ。
栄養バランスのいい食事は肉体作りに欠かせないが、忙しければ仕方ない。
あんぱんを牛乳で流し込み、味もよくわからないまま最後の一口が喉元を通り過ぎれば、あとは決まりきった習慣をこなすだけだ。
歯を磨いて、風呂に入って、少しでも早く眠る。
トレーニングは明朝行えばいい。
そんなふうに淡々とスケジュールを組み立てながら、携帯電話の液晶を眺めたタイミングでふと気づく。
平日の午前二時。
彼女は起きているだろうか、と。
報道記者として働く彼女も、俺に負けず劣らず多忙だ。
二十四時間いつ仕事をしていてもおかしくないし、連絡なんてお互い殆ど取ったことがない。
せいぜい、タイミングが合えば外で食事をする程度の関係だ。
要人の警護中、報道陣としてせわしなく動く彼女を遠目で見つけたというきっかけはありがちで。
何度か言葉を交わし、飲みに行って、それなりの仲となって今に至る。
合い鍵は彼女に渡してあった。
彼女が俺の部屋に泊まった朝、戸締まりをしてほしいと鍵を残して仕事へ向かったのを、今でもはっきりと思い出せる。
それ以来鍵は返されず、返してほしいと思ったこともない。
ただ、いつかあの鍵を使ってほしいという甘ったるい願望だけがあった。
独り言に等しい「ただいま」の後、結局何も話さないままベッドに入る。
これが俺の日常だ。
彼女は今何をしているのかなんて考える暇もなく、すぐに眠れる俺の図太さだけが、惨めさを消してくれる。
少なくとも今までは、頑なにそう信じていた。
覚悟はしていた。
この仕事は負傷を避けられない。
だからこそ躊躇いなく、俺の身体は盾となった。
ある政治家を撃とうとした男の銃弾は、俺の腹に鈍く突き刺さる。
スーツの下に防弾チョッキを着ていなかったら、俺は今頃どうなっていただろうか。
天国か地獄か、それとも無の境地か。
検査で異常なしと判断された俺は、三日ほど家を空けた。
検査入院と言う名の有給休暇を消化し、沖田さんから見舞いと称した魚肉ソーセージを貰う。
たった三日間、されど三日間。
暇をもて余していると、余計なことまで頭に浮かぶ。
俺の他に被害はない、犯人も取り押さえた。
上出来、という古い響きの単語がぼんやりと思いつく。
相変わらず、彼女から連絡はない。
仕事柄俺の負傷は知っていそうだが、だからといって連絡をする必要はないと判断したのだろう。
これっぽっちの不在が、彼女を突き動かすはずはない。
そう結論づけたのに、いざ玄関を前にすると中へ入りにくい気分になってしまうのは何故なのか。
俺は一体、彼女に何を求めているのだろう。
家を留守にしようと、俺が怪我をしようと、彼女は変わらず彼女のままだ。
報道記者として、今日もせわしなくあちこちを飛び回っているに違いない。
言い聞かせるよう考えて、深呼吸をする。
鍵を開けて靴を脱ぎ、足音に注意しながら冷蔵庫の前に立つ。
部屋の照明はつけないまま冷蔵庫の扉を開くと、そこには意外な光景が広がっていた。
牛乳、牛乳、牛乳。
一度で飲み切れる程度の小さな紙パックが、行儀よく並んでいる。
その隣には、缶ビールが遠慮がちに一本だけ置かれていた。
「…ただいま」
俺は今、一体誰に挨拶をしているのだろう。
そう考えるより早く玄関へと戻り、電気をつける。
靴は二足。
俺の革靴と、走りにくそうなヒールの靴。
この靴を履いてよくあんなに動けるなと、いつも感心してしまうそれは礼儀正しく揃えてある。
次に何をすればいいのか、そんな理性はどこにもない。
無心でベッドの前に立ち、携帯電話のライトで掛け布団へ光を当ててみる。
不自然にふくれあがったそれに手をかけ、ゆっくりとめくってみると、無防備な寝顔が垣間見えた。
ベッドの脇に転がったビールの空き缶はどれも空で、アルコール臭が微かに漂っている。
こんなところで飲むなんて、と叱れたらよかった。
スーツを脱ぐよう窘めたい、メイクは落とせと嘆きたい。
それなのに、どんな言葉も声にならなかった。
ライトが眩しかったのか、ふいに彼女は瞬きをする。
「ん…」
薄目を開けて俺の顔を見た彼女は、ごく自然に両手を伸ばす。
この行動が何を意味するかは、俺だって理解しているつもりだ。
彼女を強く抱きしめる。
鈍く痛む傷が気にならないと言えば嘘になるのに、どうしても離せない。
おそらく報道記者同士のネットワークを使い、俺の負傷を知ったのだろう。
きっかけは何であれ、ここで待っていてくれた。
その事実を都合よく解釈すると、どんな顔をしたらいいかわからなくなってくる。
彼女がいる。
一人じゃない。
「…ただいま」
「おかえり」
たった四文字の言葉が、俺と彼女を繋いでしまう。
抱きしめた先で熱を帯びるもの。
生活感に埋没しながらも、か細く光り輝く時間。
ペットボトルと調味料、時々魚肉ソーセージ。
そこに数本の缶ビールが加わる日は、きっとそう遠くない。
彼女の旋毛に唇を押し当てるとき、それが今夜最後のチャンスだ。
愛すべき明日のために、情けない俺は今日もまた挨拶をする。
穏やかな眠りにつく、意識が溶ける寸前に。
いいかげんおやすみを覚えろ