special thanks 2
□南風でさよなら
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ずっとそれを待っていた。
ひやりと冷たい孤独の心を温く溶かす南風。
「夏が終わるまででいいの。だから、お願い。」
気だるい雨の匂いがする。
時折ぱたぱたと水滴が部屋の中に入り込むのも構わずに窓を開けておくと、心なしか気分が重い。
居間のソファーが鈍く軋む音は、扇風機の送風に呆気なくかき消された。
梅雨特有の濃い湿気で肌はべとつき、不快指数は確実に上昇し続けている。
到底好きになれそうもない季節は、俺を一層憂鬱にした。
だが、これから始まる夏はもっと最悪だ。
徹夜で呑み歩いても午前四時には外が明るくなり、朝焼けの光に二日酔いを咎められては絶望する。
昼間は何をしていても暑く、ひたすらじっとして時間が過ぎるのを待つしかない。
勿論日が沈んでも涼しさとは無縁で、冷めない熱を持て余しては勢いよくビールを飲み干す。
単調な生活を繰り返しているうちにやがて遠ざかっていく、それが俺の夏だ。
しかし目の前にいる女は、俺にいつもと違う夏を要求した。
テーブルの上に置かれた茶封筒を前に、俺はコイツから差し入れてもらったアイスを食べている。
棒付のそれはありがちなソーダ味で、今の時期だと少々早い。
腹を括ってアイスを口へ運ぶと、氷を噛む音が鼓膜に響き、口の中はすぐに麻痺した。
茶封筒の中身はまだ見ていないが、こんな季節でも暑苦しい漆黒の上着を着てスカーフも緩めずにお役所仕事をするコイツのことだ。
期待を裏切らない程度の額が入っているに違いない。
「それは前金。夏が終わる頃、残りの料金も払うから。」
どれくらい迷惑をかけちゃうかわからないし、とソイツは困ったように笑った。
化粧は綺麗に施されていたが、目元がいくらか腫れぼったいのは鬼と称される上司が原因だろう。
ニコチン中毒のマヨラー上司にフラれた真選組副長補佐。
端的に表現すればくだらない話なのに、俺は事実を笑い飛ばせずにいた。
「国民の血税を男買うために使うなんざ、正気の沙汰じゃねーな。流石チンピラ警察。」
アイスを食べ終えた俺は、棒をかじりながら茶封筒を手に、思いつく限りの皮肉を吐く。
「…そうかもね。」
ソイツは組織に向けられた暴言を否定せず、俺が茶封筒を懐にしまったのを確認してから立ち上がって頭を下げた。
降り続ける雨は、一向に止まない。
雨音ばかりがせわしなく強まっていく。
万事屋として引き受けたのは、ごく単純な依頼だった。
失恋から立ち直るまで一緒にいてほしい、それだけの話だ。
そして、俺がアイツにしてやれることは少なかった。
元々多忙な女で、普段は殆ど連絡を取り合わないが、非番前夜になると朝まで外で飲み明かす。
時々メシも作ってくれるし、テレビを見ながらどちらともなくソファーで居眠りをすることもあった。
何かするとしたらそれくらいで、デートらしいデートも要求されたことはない。
こんなに気楽な付き合いなら一生続いても悪くないとさえ思えたが、それは相手がコイツではなく他の女だった場合だ。
かつては攘夷志士と共に戦った過去を持ち、それを隠しながらも剣の才を活かして真選組に入隊した幼なじみ。
男所帯に慣れているせいか気が強く、そのくせ笑うと目尻が垂れて妙に可愛げがあるヤツ。
コイツの口から、一体何回「副長」という言葉を聞いただろうか。
何度無関心を装い、聞き流すふりをしただろうか。
真選組副長補佐の女。
俺はコイツに惚れていた。
手の込んだままごと遊びに気をとられていると、いつのまにか季節は過ぎ行く。
夏なんて、あっという間だ。
そして夏バテなのか気疲れなのかわからない疲労感に襲われた頃、夏の最後を彩る行事がかぶき町近くの河川敷で行われた。
これを拝めば江戸中の人間が夏の終わりを意識する毎年恒例の風物詩、花火大会。
その片隅で綿飴の屋台を営む俺は、なるべく客商売に没頭するよう、黙々と綿飴を作っていた。
花火は次々に打ち上げられるが、うっかり夜空を見上げることもできない。
見たくないものまで視界に入ってしまう可能性を低くするには、俯くのが一番だ。
大きな祭りがあれば、副長補佐であるアイツは必ず警備に駆り出される。
そして隣にはおそらく、アイツの上司がいるに違いない。
俺も大人で、相手も仕事だ。
もっと言えば俺だって「恋人のふりを装う」という長い仕事を最中なわけで、公私混同していられない。
理屈なんていくらでも並べられる。
けれどどれだけ正論を並べたところで、「惚れた」という感情は消せやしない。
ままごとを終えられない俺に、頭上の花火は訴えかける。
どうせ一度咲いてしまえば、後は散る運命だと。
結局、花火大会は拍子抜けするほど呆気なく終わりを迎えた。
アイツやその上司を拝まずに済んだのは、アイツの計らいかもしれない。
俺が今夜このあたりで屋台を営んでいると、警備の関係で事前に知っていたはずだ。
内心安堵しながらも、全身を鉛で繋がれたようなやるせなさに襲われる。
意気地ない。
二十数年生きてきても、己の感情一つにさえ決着をつけられないでいる俺は。
「銀さん」
ふいに声は木霊し、俺を現実へと連れ戻す。
顔を上げると、そこには夜の闇より黒い隊服を着たソイツが立っていた。
「お疲れ様。今、大丈夫?」
「…お疲れさん。ちょうど後片付けも終わるところだ。」
「そっか…。さっき神楽ちゃんをおぶった新八くんに会ったよ。神楽ちゃん、気持ち良さそうに寝てたね。」
「お子様だから夜更かしできねーんだと。」
可愛いな、と呟いて笑うコイツの目は、いつもに増して優しげに見える。
警備で疲れているはずなのに、俺を気遣って作り笑いを浮かべているのだろう。
昔からそういうヤツだったと一人納得していると、ソイツは茶封筒を差し出した。
「何だ、これ。」
「約束してた、残りのお代。今までありがとう、最高の夏休みだったよ。」
「…満足したか?」
「充分、むしろ甘えすぎたかも。」
コイツがどれだけ真剣にマヨラーを思っていたのかも知っている。
完全に立ち直れたわけではないだろうが、俺にこれ以上迷惑をかけまいと終止符を打とうとしているのだろう。
肝心なところで素直になれない、損な女だ。
「さよならか。」
「うん…。」
「…そうだな、これで最後だ。」
俺自身を納得させるよう、確認を兼ねた言葉を口にする。
三文芝居もいいところで、とても人には見せられない浅はかな演技だ。
人も疎らになり始めた河原で、夜風が髪を静かに揺らす。
こんな関係も、今日で終わる。
あと少しでやってくる明日は、茶封筒で繋がれた未来ではない。
俺が欲しいのは、いつだってたった一つだ。
「もう二度と、最後だなんて言わせねェよ。」
茶封筒に手を伸ばした俺はそれを受け取らず、代わりに素早くソイツの手首を掴む。
そこから先は、花火の火の粉が消えるのと同じくらい刹那の出来事だった。
コイツの顔を引き寄せ、少し汗ばんでいる額に小さく口づける。
それがどんな意味を持つ行為だったのか、馬鹿なコイツでも流石に理解できたらしい。
「銀さん…?」
「想像通り、甘くはねーな。」
塩辛さが微かに残る。
茶封筒に入った金なんかじゃとても買えない、妙な味だ。
「毎度。」
くしゃくしゃと髪を乱すように撫でれば、コイツは何か言いたげな表情をしながら息を飲む。
お代はいただいたとばかりに掌をひらひらさせると、ソイツは一歩、二歩と後ずさりをしてから足早に駆け出した。
逃げられるなんて思われているとしたら、相当ナメられたものだ。
浮かれた季節が終わろうと、そう簡単に諦められるはずもない。
「…明日から手加減しねェぞ。」
苦々しい気分になり、夜空を見上げてそっと独りごちてみる。
生温い南風は偽物の夏に別れを告げるよう、ゆっくりと通り過ぎていった。
Fin