【青の結末】 情けないほど青臭く、息を飲むほど強欲に。 冬の終わり、いくらか温い風が吹くようになった頃。 見事な満月が浮かぶ空は、心なしか足元までよく見える。 猫一匹見かけない真夜中にアスファルトの上を歩けば、革靴の音だけが響き渡った。 手にした紙袋を揺らさないよう注意しつつ、馴染みの店から一人で帰る。 醜女が揃うその店は今夜も活気があったが、喉に刺さった小骨のようなもどかしさは夜遊びを終えてもまだ残っていた。 アイツの姿をここ数日見ていない。 それが違和感の原因だ。 店の連中に言わせると、この日程でバイトを休むと前から申請していたらしく、体調不良というわけでもなさそうだった。 あんな店で働くことを苦にしない、変わった女。 それが俺のお隣さんだ。 アパートの階段を上り、アイツの部屋の前で立ち止まってみる。 明かりはなく、人の気配も感じられない。 声をかけてみようかと思ったが、日付はとっくに変わっている。 散々悩んだ挙句、結局何もせずに俺の部屋へ入ろうとすれば、鍵は既に開いていた。 「…閉め忘れか?」 こういうことには用心深いつもりでいたが、馴染みの店に行く手前、浮かれてうっかりしてしまったのだろうか。 訝しげに部屋へ入り、玄関の照明を灯せば、そこには見覚えのある女物の靴が置かれていた。 その時点で来客が誰なのかわかってしまったが、中の様子を窺うようにして居間へと進む。 すっかり闇に慣れた俺は、間接照明のスイッチを手探りでつけてから目を凝らした。 案の定、真っ先に目についたのは、今月いっぱいは出しておく予定のコタツと仰向けになっている女の寝顔だ。 コタツの上には部屋の合い鍵が置かれている。 こういうところだけ目ざといコイツは、ポストの裏に張り付けてある俺の合い鍵を使って部屋に入り込んだらしい。 近寄っても一向に起きる気配はなく、警戒心のないだらしなさを半開きの口がよく表している。 ほぼ毎日俺の部屋にやってきてはコタツに入り、ぐうたらしているどうしようもない女だ。 そんなにコタツが好きなら自分で買え、と説教したこともあるが、返ってきたのは呆気ない答えだった。 「あの部屋にコタツなんて置けると思う?」 あの部屋。 洗濯物とゴミが散乱し、足の踏み場もないようなところ。 「だから掃除しろって」 「大体部屋にコタツなんか置いたら、絶対ひきこもりになるよ。電源も消し忘れそうだし」 みっともない理由を堂々と並べたコイツは、その後も俺の部屋に入り浸ってはコタツから出ない生活を送っている。 最初は俺も苛立ったものの、次第に何も言わなくなった。 この生活には終わりがある。 春が来て、コタツを必要としなくなれば、きっとコイツは俺の部屋から出ていく。 それまで我慢すれば、一人で過ごした穏やかな日々が再び戻ってくるのだ。 気持ち良さげに眠っている女の隣にしゃがみ込み、軽く肩を叩いてみる。 「…オイ、起きろ」 だが、女は起きる気配を全く見せない。 おまけに全身から甘ったるい匂いを撒き散らしていて、こんな醜態を晒していてもコイツが女だということを意識してしまう。 匂いを嗅ぎ分けようと鼻を使えば、バターの香ばしい匂いが微かに漂ってきた。 「焼き菓子か…?」 女の唇を拭ってみるが、やはり反応はない。 普段なら食いかすの一つや二つついている口元にも、物を食った痕跡はなかった。 するとようやく目が覚めたのか、女は寝返りを打ちながら俺の顔を見る。 「…服部?」 「起きたか」 「おかえりなさい」 「何でオマエがここにいるんだよ」 「合い鍵がある場所知ってたから、それより『ただいま』は?」 「…ただいま」 微妙にズレた返事をした女は、もそもそと上半身だけ起こし、俺が手にしていた紙袋をぼんやりと眺めた。 「それって」 「おまえの店の連中からもらったんだよ、今日はホワイトデーだったろ」 「ホワイトデーなのに服部がもらうの?」 「バレンタインに差し入れをしたしな」 紙袋の中身を改めて見てみると、店の連中がいかに俺をお得意様扱いしているかがわかる。 菓子からちょっとした小物まで、一つ一つはかさばらないがそれなりに質も量もあるようだ。 「…ふぅん、」 それを見たコイツは素っ気ない相槌を打ち、コタツから顔だけ出した状態でふてくされた表情をした。 美味そうな菓子はよこせとか、男のくせにずるいといった幼稚なリアクションを期待していただけに、この反応は意外すぎる。 そう思いながら、コタツの上を片付けようとした俺は、小さな包みが置かれていることに今更気づく。 手に取ってみると、それは可愛げのない無地の紙袋で、鼻を近づければ甘い匂いがした。 「もしかしてオマエ、」 「ブラウニーのお礼だよ、でも必要なかったかも…服部こんなにホワイトデーのお返しもらってきちゃうし」 唇を尖らせながら目を逸らすコイツは、相変わらず化粧すらしていない。 それでも一人前に嫉妬心は芽生えているのかもしれないと思うと、堪らなくなってくる。 袋の中身を確認すると、そこには型抜きされたクッキーが何枚も入っていた。 一つ取り出してみれば、ハート形のそれにはラズベリージャムが挟まれている。 「それにしちゃ細かいだろ…本当にオマエが作ったのか?」 「食べてみればわかるって」 次の瞬間、俺の口にはクッキーが一枚、乱暴に詰め込まれた。 軽くむせながらも咀嚼を終えれば、コイツはにやにやと俺の顔を見て笑う。 「どう?」 「…オマエは悪趣味過ぎ」 人が苦しんでいる顔を見て愉快そうな表情を浮かべる、どうしようもない女。 その女以上に取り返しがつかないことになっているのは、俺のほうだ。 悔し紛れにコイツの口にもクッキーを突っ込めば、女は器用に歯を立てて受け止める。 「っ、」 文句を言おうにも言えない女は大人しくクッキーを食い、恥じらいなく喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。 「これを作れるようになるまで、何日かかったんだ?」 「三日間」 「オマエにしては上出来だな」 「だからもう今日はコタツで寝ていいよね?家の中汚いし、疲れたし…」 「もしコタツがなかったらどーするんだよ」 「それでもここで寝たい」 だって部屋綺麗だし、と付け加えながら俺にクッキーを差し出すコイツは、まさに餌付けをしている気分なのだろう。 その一枚にどれだけの思いが込められたのか、俺は知らない。 だが、うっかり芽生え始めた情を楽しんだとしても、今なら見逃されるはずだ。 「…たまには大目に見てやるよ。」 「え?」 「夜中に甘いものを食うのも、」 悪くない。 そんな呟きをかき消したのはどちらの唇が先だったのか。 舌の上で甘酸っぱく後を引くラズベリージャムの味だけが、俺とコイツの結末を見届けていた。 Fin みっともなく寂しげで、きっとそれが本物の色。 |