【第二夜 夢現】 使い捨てが相応しい。 煙草、感情、俺の生。 秋の夜空は遠く感じられる。 澄んだ月ははっきりと目に映るのに果てしなくて途方に暮れた。 冬が近づき空気が冷え込めば、星はますます輝きを増すだろう。 その光は、闇を射る小さな針に似ていた。 ちくちくと柔らかく、見えない痛みを患うように。 煙草屋の二階に明かりが灯され、ほんの少し目を細める。 ぼんやりと照らし出される猫の存在。 その直後に現れた見慣れない女の影。 「オイ、婆さん…」 婆さんが出てきたと無条件で思い込んでいた俺は、その先の言葉を見つけられずに黙ってしまう。 店主はどこだ、アンタは誰だと乱暴に問い質せるほど、俺はこの煙草屋に関して詳しくない。 夜から朝にかけて婆さんが一人で店を切り盛りしている。 知っていることはそれくらいだ。 窓際から俺を見下ろす女は物言いたげな顔をしていたが、その唇が動くより先に、猫が窓際から部屋の中へと姿を消してしまう。 猫を追ったのか、やがて女も奥に引っ込んでしまい、二階から零れる明かりだけが頭上に残された。 結局店主はどうしたのかわからずじまいだが、少なくともこの店に出入りしている人間が婆さん以外にもいるらしい。 婆さんは天涯孤独の身だと勝手に決めつけていた俺にとって、この事態は想定外だった。 「…アホか、俺」 情けない独り言が鼓膜に響く。 こんな時間にこんな場所で、俺は一体何をしているのだろうか。 そのとき、一階の奥から物音がした。 同時に雨戸自体が大きく揺れて、人が通れるくらいの隙間が用意される。 明かりがないせいで店の中はあまり見えないが、荒れている様子はない。 足元からは、ちりちりと涼しげな音が聞こえてくる。 視線を下に向けると、黒猫が俺をじっと見上げていた。 行儀よく座り込んだ黒猫は大人しく、首元には凝った細工の鈴がついている。 「オマエは…」 猫に話しかけても無駄だとわかっていても、職業病なのか名前を尋ねずにはいられない。 そして、猫の後ろからは古びたランプを手にした女が現れた。 そのランプは婆さんが愛用していたもので、異国の品なのか変わった装飾が特徴的だ。 「こんばんは」 洗い髪を乾かしたばかりなのだろうか、女は髪も結わない格好で俺に挨拶をした。 深紫と思われる浴衣は裾に秋桜の刺繍が施してあり、品がいい。 濃い目の桃色の帯を僅かにめくり、裏地の黄色を見せる小粋な部分は婆さんの趣味を感じさせる。 「…ああ、」 俺は何と返事をしたらいいかわからずに妙な相槌を打ち、黙りこくってしまった。 せめて普通に挨拶をしておけばよかったのだろうが、生憎俺は仕事以外のことにそこまで機転が回らない。 「今、用意しますから」 女はそう言い残して、俺に背を向け棚を開けた。 その隙に薄暗い店の中をまじまじと覗き込んでしまおうかとも考えたが、黒猫がそれを阻むように座り込んでいる。 コイツを無理矢理抱き上げたり追い払うのは簡単だろう。 だが、この黒猫はそういうことを望まない目をしている。 深く強く、俺を見抜く。 しばらく待っていると、女は煙草を一箱持ってきた。 その手にあるのは、俺が好んでいるマヨボロだ。 「今日のお代は要りません、また贔屓にしてくださいね」 俺に煙草を差し出す女の声は、凛としているのに穏やかだった。 代金を断るとはどういうことなのか。 婆さんは元気なのか。 この猫は何なのか。 女は誰なのか。 初対面の人間にそこまで不躾な質問を並べるなんざ、下手な取り調べよりタチが悪い。 言いたいことを飲み込み、手を出してマヨボロを受け取ると、女は綺麗な笑顔を浮かべた。 女の顔は今夜の月に似ている。 はっきりと見えているのに、どこかぼんやりとして頼りない。 「…悪ィ」 結局俺が言ったのは、礼ではなく素っ気ない詫びの言葉だ。 「いいえ、おやすみなさい」 女はごく平凡な挨拶をし、猫が店の中に入ったのを確認してから雨戸を閉める。 再び店の前には静寂が戻り、気づいたときには二階の明かりも消えていた。 何もかもが夢だったのではないかと思うほど人の気配は消えてしまい、思わず手を眺めてみる。 マヨボロは確かに存在し、それが唯一今の出来事が現実のものだと訴えかけた。 煙草は手元にある。 店は閉まったまま。 この状況がこれ以上変わるとも思えない。 短絡的な結論を導き出した俺は、煙草屋に背を向けて歩き出す。 月が俺の背中からついてくるのを感じながら、胸ポケットをまさぐりライターを取り出した。 このまま歩き煙草をしようと決めて、フィルターを口に咥える。 今日何本目なのかわからない煙草の煙は、あっという間に肺の奥深くまで達した。 苦みに犯される感覚は嫌いではない。 思考が研ぎ澄まされる一方で、言わないほうがいい言葉はニコチンと一緒に吸い込んでしまえばいい。 今まで何度煙草に救われたのか、そんなことを思い出しながら夜道を歩けば、あっという間に屯所に辿り着く。 そこからの俺は、機械的に動いた。 風呂に着替え、残っていた書類の整理。 東の空が白む前に布団に入り、少しでも身体を休めること。 情緒のない生活を送るようになってからどれくらい経ったのか。 武州にいた頃は夜が長くて毎晩寝つけず苛ついていたというのに、江戸に出てきてから夜はすぐに朝へと姿を変えてしまう。 おかげで考え事も満足にできやしない。 仮にできたとしても、後味の悪い内容ばかりだ。 惚れた女がいた。 ソイツは呆気なくこの世を去った。 身体が丈夫ではないと知っていたが、そんなことは関係ない。 寿命がどうであれ、俺が幸せにしてやると言い切ってしまうことはできた。 ただ、俺はそうしなかった。 『惚れた女にゃ、幸せになってほしいだけだ』 『…どっかで普通の野郎と所帯もって普通にガキ産んで普通に生きてってほしいだけだ』 あの言葉は、良くも悪くも俺の全てだ。 想い人の幸せを願うのも一つの愛の形と言えるだろう。 しかし、無責任な奴が謳う綺麗事だと揶揄されても仕方ない話でもあった。 人生に仮定形など存在しないと、理屈ではわかっている。 ミツバは死んだ。 俺はアイツを幸せにすることはできなかった。 今となっては、ただそれだけが救いようのない事実として俺を責め立てる。 そんな現実から逃れるためにも俺は働き続ける必要があったし、使い捨ての消耗品で安息を得るべきだった。 「…苦ェ」 煙草はいつもより苦みが強く感じられたが、銘柄は変わらない。 変わったのは俺なのだと告げるように、障子の隙間から入り込んだ秋風が部屋の中を通り抜けていく。 煙草屋の婆さんの死を知ったのは、その翌日のことだった。 その味に、甘みはなくとも。 |