【チェックメイト】 最悪な一日の終わりが、まだ来ぬ明日を連れてくる。 夏の夜空はどこか薄明るく、星の瞬きが目立たない。 おまけにここは繁華街が近いので、星よりもネオンのほうが数多く、朝日が昇るまで作り物の明るさを延々と放っている。 辺りは倉庫や廃ビルばかりで人の気配もなく、深夜だというのに規則正しく鉄屑がぶつかり合う音が響いていた。 この一帯の深夜作業は法的に禁じられているはずだが、こういう場所では法よりも有効とされる権力があるものだ。 少なくとも俺は、そういう世界を幾度となく目にしてきた。 港近くにある取り壊し予定の廃ビルは人影もなく、手荒なことをするには好都合な場所だ。 幸か不幸か、目の前には暗く深い海が無限に広がっている。 気に食わない人間を痛めつけて取り返しのつかない事態になったとしても、海底に沈めてしまえばいいだけの話だ。 そして今夜の俺は、どうやら誰かにとって気に食わない人間になってしまったらしい。 繁華街の裏通りで、通りがかった気の弱そうな会社員風の男から鳩尾へと重い一発をくらってしまった。 あれからどれくらい時間が経ったのか。 気がつくと、俺は両手の自由を奪われた格好で埃っぽい床に倒れ込んでいた。 剥き出しのコンクリートが霞む視界に映り、生温い隙間風が頬を撫でては潮の匂いが鼻孔をくすぐる。 落ち着いて五感を使えば、ここは港近くで取り壊し予定になっている廃ビルだろうと予測できた。 後ろ手になっているせいで確認できないが、おそらく手首には手錠がはめられている。 夜中だろうと未だ冷えない空気のせいで肌はじわりと汗ばみ、喉がやけに渇いてしまった。 スーツは汚れ、ワイシャツは皮膚にまとわりついてしまい、不快なことこの上ない。 視線の先には、見覚えのない顔の男が数人いた。 その中の一人が、黒のスーツ姿に革靴という暑苦しい装いで俺のほうへと歩いてくる。 品がなく耳障りな靴音が質の悪い革を連想させる男は、目の前でしゃがみ込んでから事の顛末を話し始めた。 ある会社の芳しくない情報、不正に関するデータを渡せ。 端的に要約すれば、ただそれだけのことだ。 万一要求が通らないのであれば殺してもいい、黒いスーツ姿の男はそういう内容のことを立て続けに喋った。 俺の表向きの顔は、小さな貿易会社の社長だ。 しかし、その一方で面白そうな物や情報を集めては売りさばくという何でも屋に近い仕事もしていた。 俺の行いが善か悪かと問われれば、悪で間違いない。 何を犠牲にしても、俺は俺の欲に忠実であるべきだ。 「残念だが、その要求は飲めねェよ。」 ぼそぼそと低い声で呟けば男共は下衆な言葉を吐き出し、俺の肩を強く踏みつけた。 「―っ…!」 骨が軋む音を聞きながら、奥歯を食いしばる。 視線を男の足から腹へ、そして腕へとなぞるように見上げれば、その手には銃口があった。 サイレンサーの有無は判断がつかないが、発砲音が鳴ったとしてもここなら特に問題ないはずだ。 限りなく絶望的な状況だというのに、なぜか全く悲観せず、むしろ気分が高揚してしまう俺はどこかおかしいのだろう。 これくらいのことが起こらなければ、女の腕前は拝めない。 アイツの、あの目も。 次の瞬間、短い発砲音が湿気た空気を勢いよく切り裂き、俺に銃口をかざしていた男は呆気なくトリガーを手放した。 肩に銃弾が当たったらしく、右肩を左手で押さえつけながら何か喚いている。 男達が銃声の出所を視線で一斉に探り合ったときには、既に決着がついていた。 ダークグレーのパンツスーツに白のワイシャツ姿の女は、ヒールがやたら攻撃的な黒のパンプスで次々に男達へと蹴りかかる。 ショートカットの髪は大きく揺れ、柔軟な身体は滑らかに弧を描き、鋭く無駄のない手さばきは見ていて飽きない。 ソイツは粗野な手から逃れては腕を掴み汚れた図体を投げ捨て、銃弾を避けてはすれ違い様に首筋を手刀で強打する。 やがて連中に労力を使うのが面倒になったのか、女は拳銃で素早く腕や肩を射抜いた。 容赦ないコイツの戦い方は、傍観しているだけで血が騒いでしまうほど印象的なものだ。 女の技を鑑賞するためなら、くだらない茶番にすら付き合ってしまう俺を、本人はどう思っているのだろうか。 俺の身辺警護役なんて言えば体裁はいいが、実際は俺を護るためなら何でもする女。 これが俺の持ち合わせた本物だ。 「待った?」 「退屈すぎて死ぬところだ。」 安否に関する安っぽい言葉は漏らさず俺に近づいた女は、針金一本で手錠を開けようとしている。 動きは手早いのに余裕すら感じられるソイツの呼吸も、指先の絶妙な仕草も嫌いではなかった。 もっとコイツの変化を見てみたい。 窮地に追い込むだけ追い込んで、この女がどんな変貌を遂げてくれるのか。 そんなことを考えているうちに、あっけなく手錠は解かれた。 身体を起こして立ち上がり、俺に拳銃を向けていた男の元へと歩み寄る。 男が手放した拳銃を拾って、銃口をソイツの頭に構えたとき。 「晋助」 女は唐突に俺の名を呼び、懐から取り出した拳銃を俺に向かって投げつけた。 俺はそれを片手で受け止め、ちらりと銃口を眺める。 そして間髪入れずに男の銃を手放し、女から受け取った銃を男の頭ではなく腹へと向けて構えた。 「アイツに救われたな、」 渇いた音が響き、男は脇腹を抱えて倒れ込む。 コイツらは女の手によって負かされ、女の機転で命拾いをした。 俺は女を一瞥してから、ビルの出口に向かって歩き出す。 女は俺と少し距離を取りながらも後からついてきた。 「麻酔銃なんて、テメェには必要ないだろ。」 「…私は必要ないから、晋助にあげる。」 今日はそういう日だし、と女は関心なさそうな声で付け足す。 そういう日。 祝うにしては最悪な日だが、俺が好むものを拝めた日という意味では悪くない日だ。 「本物以外に興味はねェ。」 言い放って後ろを向けば、女はぴたりと歩くのを止める。 女の頬には先程の一件で作ったかすり傷があり、微かに血が滲んでいた。 俺はソイツの冷たい皮膚に手を伸ばし、親指で傷を拭ってやる。 「俺はこれがあれば十分だ。」 指に付着した血を見せつけると、女は意味が分からないといった様子で俺の指を睨んだ。 「行くぞ。」 夜明けまではまだ時間があり、今日も長い一日になりそうだが、始まりとしては悪くない。 そう思ってしまうのは、俺の隣に本物があるからだ。 眩しいほどの朝焼けを想像すれば、自然と目は細められる。 最高な一日の始まりが、まだ見ぬ明日へと走り出す。 Fin Happy Birthday to Idealist!! |