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□心臓ふたつを包んで破いて
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【心臓ふたつを包んで破いて】





剥き出しの感情を手にするために。










漆黒は頭上いっぱいに空を埋め尽くし、隙間すら見せない夜。

窓の外では高層ビルばかりが存在感を示し、広がる闇に溺れないようにと明かりはあちこちから湧き出ていた。

換気もロクにできない室内の空気は、梅雨明けもまだだというのにどこか埃っぽく乾いている。

手元の腕時計が表すのは、短針と長針がちょうど真上を向いて重なる時間だった。

フロアにはストーカーの上司もいなければ、ヤニ臭いマヨラー、あんぱん中毒の同僚もいない。

通路の照明が落とされた空間は、海や地面からずっと遠いところにあるのに、深海や地下にも似た閉塞感を感じさせる。



ここが俺の住む世界。

組織に属している以上、好き勝手はできないし腹が立つことも多いが、この夜景を眺めるのは嫌いではなかった。







「…沖田さんは終わりそうですか?」

「残り四百字をアンタに押しつけてよければ、いつでも終わりやすけど。」

机を挟んで向かい側に座っているソイツの顔はあえて見ずに、ノートパソコンの画面を眺めつつ飄々と返事をする。

優秀な俺は、残念ながら始末書の枚数も班内で断トツ一位だ。

少し間を置いてからコイツの顔を盗み見ると、コイツもやはり俺の顔を見ず、滑らかな手つきでキーを叩いていた。

その他に音はない。

パソコンが動く微かな音と、姿勢を変えるたびにソファーが唸る音だけが耳に残る。

デスク横の小さな応接室は名ばかりのもので、徹夜明けの連中が仮眠をとったりマヨラーがニコチンを摂取する薄汚い部屋だ。

ソファーもテーブルもやや低めになっているこの場所で、胡坐をかいてパソコンと向き合うのが俺の残業の定番になっている。

もっとも、そんな状態で効率など上がるわけがない。

大概眠くなってその場で寝るのがオチだからこそ、この大きなソファーで作業することに意味がある。

合皮のソファーは俺とコイツの唾液をどれだけ付着させたかわからない代物で、いつからか客は奥の会議室に通すようになった。

「こっちも沖田さんに始末書を押しつけられなければ帰れそうです。」

テーブル越しに呟いたソイツの声は、すでに疲れ果てている。

二人とも早朝から丸一日要人警護に駆り出され、備品を壊し、要人とはぐれるという失態まで犯した今日は始末書の枚数も多い。

「終電は?」

「…聞かないでください。」

おそらくタクシーか徒歩で帰るしかないのだろう。

日付も変わったし眠気はピークに達していて、疲れた身体に鞭を打ったところで明日も休めるわけではない。

勿論いつものようにコイツに仕事を押し付けて帰ってもよかったが、何となく気が引けた俺は、珍しく真面目に働いていた。

同じ日に配属された俺とコイツは、常に揚げ足を取り合って働いている。

だからこうして二人で深夜作業をしたり、気がついたらソファーの上で朝を迎えていたなんてこともよくある話だった。

机の上に置きっぱなしにしていた飲みかけのコーラのペットボトルを手に取り、蓋を開ける。

気の抜けてしまったそれは、口に運んでも生ぬるさと人工的な甘みが感じられるだけで美味くはない。

向かい側に座るソイツの手元には、パソコンや書類に紛れて栄養ドリンクの瓶が二本、無造作に転がっていた。

眉間に皺を寄せ、落ちかけた化粧も気にすることない姿は女とは思えない。

生物学上は女なのだと、どれだけ無理矢理思い込もうとしても無駄だった。



コイツは女じゃない。

かといって、その華奢な手首や長い睫毛は男のものでもない。

ただの同期、それだけだ。







SPという職業柄、多忙な上に休みは不規則、その辺の男よりも腕っぷしがよくて負けず嫌い。

そんな怪物女なんて、嫁の貰い手もいないだろう。

けれど俺が疲れているときに目薬やガムを差し出すところや、プリンが好物だと言っている姿は普通の女に見えた。

他人をよく見ていて、滅多なことでは物事を見限らないヤツだ。

そうでなければ、変人呼ばわりされている俺とここまで働けないだろう。





「…沖田さんこそ、なんで今日は残ってるんですか。」

「別に。」

もっとうまい即答の仕方があった気もしたが、今更訂正するのもおかしいので、俺は弁解もせずに押し黙った。

そんな俺を見ながら、ソイツはぼそぼそと独り言のように呟く。

「今日ならサボってもよかったのに。」

あまりにも予想外の一言に、俺は耳を疑った。

「…は?」

コイツは俺の返事などどうでもいいらしく、再びキーを素早く叩き始める。

毎日毎日、俺がサボるところを見つけては怒っているコイツがサボればいいと言い出すだなんて。

何か理由があってのことなのか。



それなら、何が。





思考を張り巡らせたところで一つの予想に辿り着いた俺は、スーツの胸ポケットから携帯を取り出して液晶画面を覗き込む。

七月八日、その日が何を意味するのかを、俺より先にコイツが意識している。

そんな事実が俺の腹のあたりを微かにくすぐった。





「オイ、」

声をかけようとすれば、鼻息の荒い返事の代わりに穏やかな寝息が聞こえてくる。

ソイツはパソコンを開いたまま、いつのまにかソファーに横になって眠っていた。

パンツスーツの足元はきっちり揃え、上半身を横たえて。

立ち上がった俺が向かい側に回りこむと、パソコンの液晶画面にはぴっちりと仕上げられた始末書の内容が表示されている。

見直しもされており、毎週締め切り直前になってから書き上げ提出する週報にまで手をつけた形跡があった。

この様子なら、コイツは今夜残業をしなくてもよかったはずだ。



「…アンタが寝ちまったら意味ねーだろ。」



こんな日に、俺の隣にいようとしてくれた。

それはコイツなりの気づかいのつもりなのだろう。

口が半開きになっている間抜けな寝顔は女のものとは言いにくいが、柔らかな呼吸は男のものでもない。

俺はその場にしゃがみこみ、コイツの顔をじっと眺める。

コイツのだらしない表情なんて、今まで飽きるほど見ているはずなのに、今夜は何だか無性に愛おしい。

悪戯心がむくむくと湧き上がってきたが、何をしたらいいのかわからず、コイツの頬を人差し指でくるくるとなぞった。

それでも起きないコイツを前に、俺は溜め息を洩らして立ち上がる。

スーツを脱いでソイツの上半身に被せてやれば、眠りから覚めずとも、微かに呼吸が乱れたのがわかった。



「プレゼントを置いて帰るわけにはいかねーから、始末書が書き終わったら起きてもらいまさァ。」



コイツが起きたら、どんな言葉で虐めてやろうか。

俺は再びパソコンの液晶画面を睨み、真剣に頭を悩ませ始める。

始末書より簡単そうなのにうまい言葉が見つからず、想いは到底口にできそうにない。

ネクタイを片手で緩め、口元を片手で押さえた俺は小さく宣戦布告をした。





「包装紙は破る派なんで、覚悟してくだせィ。」





笑みを噛み殺す俺の仕草を、パソコンの液晶から放たれる煌々とした明かりだけが眺めている。

まだ今日は始まったばかりで、焦らずとも一日をじっくり楽しんでしまえばいい。





夜の深いところへ二人上手に沈めるよう、俺は仕事を片付けるべく再びキーを叩き始めた。










Fin



Happy Birthday to Sadist!!
   



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