【雨粒ほどの甘ささえ】 雨音が奇跡を奏でる。 生を感謝するように。 空気は湿気を帯び、呼吸をじっとりと重くさせる。 羽織は汗と泥と雨で濡れ、この上なく着心地が悪い。 白い鉢巻きは、額の汗をこれでもかというほど吸い込んでいた。 曇天のせいで空は妙に明るく、故に夜更けにしては周りのものがよく見える。 雨は降ったり止んだりを繰り返し、天気はなかなか安定しない。 敵陣への夜襲から寝泊まりしている古寺に戻る途中で再び降り始めた雨が、俺の身体や防具を濡らす。 この雨が様々な汚れまで洗い流してくれればよかったのだが、どうやらそうもいかないらしい。 他人の身体から流れ出た赤が、羽織の所々を汚したままになっている。 行きは仲間という話し相手が数人いたが、帰りは一人という夜を何度乗り越えただろうか。 夜明けまではそう遠くなく、視界もそれほど悪いわけではないのに、闇から抜け出す方法がわからない閉塞感が俺を包んだ。 拠点としている古寺は、小さな山のふもとにあった。 山といっても半刻も登れば頂上に辿り着いてしまう、高さのないものだ。 古寺の入り口には朽ちかけた門があり、そこをくぐると苔むした石段が続いている。 石段の両脇には見事な紫陽花が咲き誇っていて、下から見上げた眺めはこの古寺で唯一趣を感じられる場所だ。 雨の日の石段は滑りやすくなっており、銀時も坂本もここで何度も転んでは派手に頭を打っている。 高杉は平静を装っているものの、足を滑らせかけては何事もなかったかのように体勢を整える動作が奴らしくて滑稽だった。 気のおけない仲間が、ここにいる。 ただそれだけを糧にして、毎日ここまで帰ってきた。 慎重に石段を登りきったところで、戸が半分以上閉ざされた寺の本堂が目に入る。 中では皆が雑魚寝でもしているのだろう、生きている人間の気配がした。 そして、戸に背をもたれさせ、両腕を組みながらぼんやりと俺を見つめる人影に遭遇する。 「…まだ起きてたのか。」 声をかけるが、当然のように返事はない。 薄汚れた羽織と白装束姿の彼女は、どこか儚さを帯びていた。 攘夷志士として俺達と刀を振るう彼女は、松陽先生の教え子の一人だ。 男子しか学問を行わないなんて不公平でしょう、そういう内容の話を松陽先生が一度口にしたことがある。 松陽先生の言葉は、どんな些細なものでも昨日の出来事のようにはっきりと思い出せた。 彼女は、俺達の問いには大概何も答えない。 銀時がいくら低俗な話をしようが、坂本が尻を触ろうとしようが、高杉に嫌味を言われようが、決して能動的にはならない。 それでも彼女の思いを考えれば、ここに留まらせる以外に道はなかった。 「一人?」 お疲れ様でも大丈夫でもなく、彼女はそう呟いた。 俺は寺の屋根の下に入り、彼女と少し距離を取ったところで防具を外し始める。 「ああ。」 返事をすると、聞かずとも見ればわかるであろう現状を確認した彼女はそのまま黙り込んだ。 雨に濡れた長髪がどうも鬱陶しく、手荒に水気を絞り取るが乾きはしない。 しばらくはこのままでいるしかなさそうだ。 鉢巻きをほどいたところで、ようやく一息ついた俺はその場に座り込む。 彼女は相変わらず立ち尽くしたままで、どこか遠い所を見つめていた。 「明日は早くないのか。」 「早くない。」 気を使った俺が問いかけると、短い答えが返ってくる。 この返事も、本来聞かなくてもわかることだった。 明日、彼女と銀時は昼過ぎから出陣の予定で、午前中は高杉の鬼兵隊が主に活動する予定になっている。 彼女と俺は、常にわかりきった言葉を使わなければ繋がれない。 そういうものなのだと、今までずっと思い込んでいた。 だから信じられなかったのだ。 次の瞬間に彼女が俺の真後ろにしゃがみこんだことも、濡れた黒髪を手にしたことも。 気づいたときには、俺の長髪は彼女の華奢な手によって、手拭いを使い水気を拭き取られていた。 「…どうしたんだ、一体。」 「こうしたかったから。」 彼女は迷いなく即答し、俺は呆気に取られて口を半開きにしてしまう。 その意外性に負けて、いつも以上に思ったことを思ったままうっかりと喋ってしまった。 「珍しいな。」 「今日だけ、特別。」 こんなことをする彼女なんて、もう何年も生活を共にしてきて初めて見た。 普通なら、彼女が俺に触れるはずもない。 今日だけ。 今日は。 「…今日だけ、か。」 俺がふっと笑ってしまえば、彼女は一瞬手を止めて不服そうに俺の顔を覗きこんだ。 「髪を切ろうかと思ったこともある。戦いで邪魔になるだろう?だが、なかなか切れなくてな。」 一方的に話せば、聞いているのか聞いていないのかはわからないが、彼女の手は止まることなく俺の髪に触れ続ける。 「切らなくてよかった。」 感じたことを隠さずにありのまま吐き出しても、彼女はひたすら黙っていた。 否定しない、それは彼女なりの無言の肯定なのだろう。 髪が長ければ、当然乾くまで時間がかかる。 彼女が俺の髪を乾かす気になってくれたのなら、もう少し二人でいられるということだ。 今日という日に、二人きりで。 彼女の手の動きの妨げにならない程度だけ振り向けば、彼女の目線は俺の髪のほうへと向けられた。 まるで、目線を合わせたなら全てが分かってしまうとでも言いたげに。 俺はそんな彼女の仕草を見て、やっぱり笑うしかなかった。 湿気が多かろうが、雨だろうが、彼女は太陽のように輝くことはなくても、俺にほんの少しの温みをくれる。 「今度は俺が拭いてやろう。だから教えてくれ。」 誕生日はいつなのか。 そう言いながら俺は再び前を向く。 やがて呟かれた日付を頭の片隅にしっかりと留めながら、俺は彼女の気が済むまで濡れた髪を預け続けた。 Fin Happy Birthday to Revolutionist!! |