【白葬 〜月と誓約〜】 黒を剥ぎ、白を纏う。 この世界を裁くため。 月は煌々と夜の江戸を照らし、天高いところから世界を包み込んでいる。 太陽と月の前では全てが平等で、そこには家柄もなければ役職もない。 公務が長引いたせいですっかり遅くなってしまったと思いながら、スカーフと上着、安っぽい紙袋を手にした私は廊下を歩いていた。 質のいい木材を使ったおかげで、廊下が軋む音は殆ど聞こえない。 見廻組の屯所は、役所勤めの高官を言いくるめて自費で作ったものだ。 優秀な部下を集めるなら、それに相応しい場所や器を用意しなくてはならないと思い、建築に踏み切って今に至る。 必要以上に城の人間から干渉されることのない屯所は、佐々木家からも距離があった。 私にとって唯一気が休まる場所ではあるが、ここ数日は公務が続き、睡眠も十分に取れていない。 それでも今夜、どうしても行わなければならない仕事が一つ残っている。 あの晩、見廻組へと引き抜いた彼女の処遇を定かにすること。 それが今日一日を締めくくる仕事だった。 彼女は表情の変化を殆ど見せないが、だからといって感情が読めないわけではない。 私はエリートなので、相手が何を考えているのか多少なりと察することはできる。 もっとも、察するのと理解するのは別だ。 見廻組に所属する以上、彼女の性質を満足に理解しないまま、ここでの立ち位置まで決めてやらなくてはならない。 組織の中で誰かの仕事を決定するということは、大胆さと慎重さが入り混じる仕事でもあった。 その人物の才を生かすも殺すも私次第、人の上で生きるエリートの特権だ。 暗殺部隊で抜群の腕を持つと噂される人物、今井信女。 歳は私と十五も違い、物言いや仕草には幼さが残っている。 彼女を暗殺部隊から引き取るのは想像以上に簡単だった。 暗殺部隊も、所詮は組織だ。 仲間の輪を乱す行いをする者には冷たく、能力が特別優れている者に対しても異端児扱いをして突き放す。 暗殺部隊での彼女は、周りから三天の怪物と呼ばれる私とどこか似ていた。 彼女の人間離れした身体の動きや緋色の目は怪物の要素であり、ある意味私と同じだと考えれば何故か悪くないと思えてしまう。 目的の部屋に近づけば、ぼんやりとした行灯の明かりが障子から滲み出ているのが見て取れた。 気配はなかなか感じられず、起きているのか眠ってしまったのかもわからない。 私は部屋の前で立ち止まり、特に警戒もせず声をかけた。 「入ってもいいですか。」 ここでようやく、彼女が障子の向こう側で立ち尽くしている姿が影となって浮かび上がってくる。 黒い影は行灯の明かりの弱さ故か輪郭がぼやけていて、彼女の成長しきれていない精神そのものを映し出しているようだった。 「…どうぞ。」 抑揚ない返事を耳にしてしてから、私は障子を開けて彼女の姿を確認する。 着替えの最中だったらしく、彼女は下半身こそ制服を着ているものの、上半身はサラシを巻いただけで白い肌が艶かしい。 中庭から廊下を越えて部屋に入り込んだ夜風は、彼女の滑らかな長髪を微かに靡かせた。 私は静かに障子を閉め、間合いの距離まで彼女に歩み寄ったところで立ち止まる。 「どうしましたか?」 「別に。」 不躾な彼女の態度を注意するでもなく、彼女は洋装の経験がないのではないかという推測を断定づけるために私は言葉を続けた。 「すみません、着方を教えていませんでしたね。」 畳の上にぐしゃっと置かれていたワイシャツを手にし、彼女が着やすいようにと袖を背中へ広げてやる。 「腕を通してくれませんか。」 淡々と呼びかければ、彼女は抵抗せずに腕を伸ばしてワイシャツを羽織った。 彼女の前に回りボタンを一つずつはめてやると、彼女の身体はぴくりと僅かに反応する。 人に触れられることを知らない、そんな素振りで。 その仕草をあえて気にせずベストまで着せれば、彼女のサラシとワイシャツ、私の隊服で白く染まった姿見がやけに目についた。 「私としたことが上着を置き忘れてしまいましてね。」 意外にもおとなしく上着を羽織った彼女は、改めて姿見をじっと見ている。 彼女の背丈に合わせて仕立ててもらった特注の制服は隙がなく作られていた。 白い制服は彼女の黒髪を引き立て、長めの丈の上着もバランスを取るには丁度いい。 上着のフックを全て閉じた後、私はスカーフを取り出して彼女の首元へと絹を滑らせようとする。 「結びましょうか。」 「いい。一人でできる。」 首元は他人に預けない、その姿勢も好ましい。 彼女が慣れない手つきでスカーフを結んでいる間に、私の脳はしっかりと動き、ある結論を導き出した。 この上着とスカーフが似合うくらいだ、彼女に相応しい立ち位置はきっと一つしかない。 若さ故に足りない能力は、エリートである私が責任を持って補ってやればいいだけのことだ。 「…ああ、よく似合ってますよ、制服。」 思ったまま言葉を発するのは浅はかな行為だと信じてきたが、このときは感情がさらりと口をついて出てしまった。 彼女は自身の腕の辺りを見てから、ほんの一瞬眉をひそめる。 おそらく返り血を浴びる心配をして、白い制服を懸念しているのだろう。 だが、彼女なら返り血を浴びずに刀を振るうことくらい容易いはずで、単に責任ある振る舞いをする気がないだけなのだ。 そんな考察を頭の片隅に置いて、私は彼女に勝手な要求を突きつける。 「副長になってくれませんか?」 「ふくちょう…?」 案の定、彼女は表情を変えないまま言葉を詰まらせてしまった。 「…それは沢山斬ることができる?」 問いかけられたのは想定内の返事で、私は既に決めていた言葉に己の感情を少々足して端的に答える。 「それなりには。ただ、一つ約束してください。その制服を、むやみに汚さないように。白は染みを抜くのが大変なんです。」 この言葉に含まれた私の真意など、彼女が理解できるはずもないだろうし、厳密に言えば理解させてはならない言葉でもあった。 彼女は微かに俯き、長い睫毛を数回はためかせる。 おそらく制服を汚さないでいられるか、ということを自身に問いかけているのだ。 その姿勢も、私が求めていたものに限りなく近い。 他人と約束をする前にまずは自分自身に誓う、その妙な生真面目さは今後必ず活きてくるはずだ。 「それから、これをどうぞ。」 紙袋を差し出せば、彼女はじっとそれを眺めてから手にして、ドーナツを取り出し口に運ぶ。 暗殺部隊のエリートだなんて、もしかしたら嘘なのかもしれない。 現に首元こそ警戒したものの、私が手渡したドーナツは毒の一つも疑わずに勢いよく食べてしまうくらいだ。 いくら幼いからといって、無警戒にもほどがある。 想像していなかった部分はこれからも少なからず見受けられるはずだろう。 種は蒔かれた。 ドーナツを頬張る彼女の顔を見つめながら、私はこれから何を行っていくべきなのかと密やかに考え始める。 計画は既に入念すぎるほど練り上げられていて、それを現実のものとして手繰り寄せて。 妨げとなるものには、迷わず銃口を構えればいい。 ただ、それだけのはずなのだ。 to be continued… その存在が闇を照らした。 |