【白葬 〜月と片眼鏡〜】 退屈だったのだ。 この片眼鏡から見る世界はひどく汚れて、歪み果て。 いつの頃からだろうか。 名門と謳われる家に生を受けて生活していると、良くも悪くも五感が冴えることに気づいた。 例えば、嗅覚。 茶や花を嗜むべきであろう鼻孔は、酒や香水、血の臭いで犯されていく。 次に、視覚。 世の悪事ばかりが目につくと同時に、それを解決するのが必ずしも正義ではないということも見えてしまう。 聴覚もそうだ。 文武両道だの三天の怪物だのと讃えながらも、ひとたび影に耳を向ければ私を妬み罵る声が聞こえた。 触覚だって鋭い。 今まで手にしたものは一流の素材ばかりだったので、安っぽく斬り捨てられた凡人の綿や麻の着物に触るだけで肌が荒れる。 あと一つは、うまい使い方を知らない。 月は天高いところから、物言わず地上を照らしている。 革靴は品のいい音を立て、澱んだ空気をほどよく揺らした。 江戸の小汚ない路地裏には相応しくない代物で、辺りを波立たせないように夜の闇の中をひっそりと歩く。 ドーナツが敷き詰められた箱を手にする私の姿は、少々滑稽かもしれない。 白い制服には金の刺繍が施され、布も絹をふんだんに使った一流のものだ。 腰の刀と懐の拳銃も、甘い菓子には似合わない。 だが、差し入れは不可欠だ。 特にこんな深夜労働をするなら、糖分と炭水化物を補給する必要がある。 やがて二人分の吐息を耳にした私は、静かに足を止めた。 半分程度しか開かれていないこの目ですら、世界は十分見えるし状況を把握することもできる。 たった今、目の前で男が斬られたことや、彼女の気配に迷いがなく、その刀がてらてらとした赤で染まっていることも。 太刀筋は大人びて美しいのに、彼女の刀が宙を舞う寸前に溢された言葉は幼子のそれと変わりない。 「鬼ごっこは、おしまい。」 声は若く、年の頃はいくつなのだろうと後ろ姿から推し量る。 おそらく私より、ゆうに十は若いだろう。 「…殺っちゃった。」 私に対し背を向けたまま、彼女は気怠そうな溜息を漏らした。 さしずめ、返り血を浴びて黒装束を汚してしまったといったところか。 恐怖心は感じられず、漆黒の長髪は時折夜風に流され、音もなく微かに揺れた。 懐から何かを取り出すような仕草をしてから刀を鞘に収め、赤くなった和紙を地面に落とす。 手持ちの和紙はなくなったのだろうか、だらりと力なく垂れ下がった掌は、赤く染まったままだった。 その手を拭ってやれたらと、ぼんやり思う。 あんなに汚れてしまった手では、きっと何も触れられない。 私が手にしている、安っぽく甘い菓子さえも。 「不思議。」 彼女が漏らした声は無意味に軽くて明るく、どこか抑揚がない。 その場から動かないのは己の所行に罪悪感を抱いているわけではなく、後始末を待っているからだろう。 まだ悟りを開くような年頃でもないだろうに、仕事ができて感心だと言いたいところであったが、彼女はプロだ。 紛う事なきエリートの姿に、つまらない賛辞は必要ない。 だが目の前で散った命から、広がりゆく赤から、すぐ隣に迫り来る死から彼女の関心をこちらに向けなければならなかった。 私が選んだ手段は、何を褒めるわけでもない気の抜けた拍手。 「こんばんは、はじめまして。」 「…何?」 緋色の目が印象的な顔立ちをしているが、言葉遣いのほうは成熟しているわけでもなさそうだ。 もし今後も私と関係を持つなら、それなりの知識を与えてやらなければならないだろう。 「夜勤だと聞いたので差し入れを持ってきたのですが、その手では食べられそうにありませんね。」 赤く染まった華奢な手をちらりと眺めれば、彼女はあらゆる感覚を駆使して私の素性を把握しようとする。 殺気があるわけでもないのにいつ抜刀されてもおかしくない、そんな緊張感が互いの間に漂う。 彼女のそういう姿は嫌いではなかった。 何でもすぐに信用するような人間を捜していたわけではない。 「甘いものは嫌いでしたか?」 声色を変えずに問いかければ、彼女は首を横に振った。 無遠慮な声をもう少し聞きたかったが、彼女との距離を埋め、血まみれの細い手を取り、白いハンカチで包んでやる。 彼女が自身の身体に赤を纏うのは似合わない。 黒装束も、この黒髪を引き立ててはくれない。 相応しいのはもっと別の色だ。 私は箱を開けてドーナツを一つ取り出し、彼女の口元へと運んでやった。 「おいしいですよ、どうぞ。」 彼女は私の顔を訝しげに眺め、やがて手まで食いちぎられるのではないかという勢いでドーナツにかじりつく。 その姿を前にして、私まで久しぶりに甘いものが食べたくなってしまった。 「いい食べっぷりですね。」 無心にドーナツを頬張り続ける彼女は、ようやく年相応の気配を醸し出す。 暗殺部隊に所属しようが、人を殺めようが、普通の人間と何等変わりない舌を持っているようだ。 「白い服に血がつくとなかなか落ちないですよ。もう少しエリートらしく斬ってください。」 彼女は私と同じ色の制服を着るべきだと、私の中で勝手に決めてしまった。 論理的でも何でもなく、この上ない独断だ。 「この制服が嫌いでなければ、私と一緒に来てくれませんか?」 ドーナツを飲み込むタイミングに合わせて言葉を投げかければ、彼女は一度だけ頷き、私の片眼鏡を覗き込んだ。 何も見えないはずの透明なレンズの奥に、何かが秘められていると言いたげな顔をして。 片眼鏡は紳士の象徴で、江戸広しと言えどなかなか身につけている者はいないだろう。 だから珍しくて仕方ないのだ。 そして私も、想像を超えた食欲を目にしたせいで、ほんの少し彼女に気をとられて。 そのせいで、名乗るきっかけを失ってしまった。 ただ、それだけのはずなのだ。 to be continued… その存在が種を蒔かせた。 |