clapping

□白葬
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【白葬 〜月とドーナツ〜】





退屈だったから。

緋色の目が映す世界は血に濡れ、歪み果て。










いつ頃からだろうか。

人目を忍ぶ仕事のせいで、以前より鋭くなった五感が、感じなくていいことばかり感じ取るようになったのは。

例えば、嗅覚。

毎日生臭い鉄の匂いに身を覆われていたからか、白粉の匂いはどこかに飛んで消えた。

次に、視覚。

暗闇に慣れるのも時間がかからなくなったし、目を懲らさなくても相手の動きがわかる。

聴覚もそうだ。

衣擦れの音も忍び寄る輩の吐息も、刀を返す些細な金属音ですら両耳で拾い上げた。

触覚だって鋭い。

触れずとも、切っ先で斬ったものの手触りも生暖かさも想像がつく。



あと一つは、使い方を忘れてしまった。







走り疲れた息づかいが、暗い路地裏にこだまする。

真夜中の江戸の片隅で人知れず行われるのは、ささやかな命のやりとり。

道の突き当たりまで追いつめて、静かに相手の男を見据える。

「鬼ごっこは、おしまい。」

最期に相応しい言葉は思いつかないままありがちな終焉を告げてやれば、しっかりとした体格の男は大きく刀を振り上げた。

この瞬間だけ見れば、女が暴漢に襲われていると間違われるかもしれない。

それも悪くないと思いながら、刀を鞘から引き抜き目の前で滑らせた。

男は声を上げることもなく、安物の戸板が倒れるように一瞬でひっくり返る。

同時にべたべたとした赤いものが顔や手にかかり、思わず眉を潜めた。

「…殺っちゃった。」

黒装束を着ているとはいえ、返り血を浴びれば当然血抜きが必要になる。

洗濯代が馬鹿にならないし、何より同じ暗殺部隊の人間から白い目で見られるのが面倒だった。

黒装束を汚す斬り方をするなんて三流の仕事だと責め立てられるだろう。

胸元から和紙を取り出し刀を拭えば、刀は艶やかな刀身を見せ月の光を存分に反射している。

小さな溜息をつきながら刀を鞘に収め、赤く染まった和紙を地面に落とした。

和紙はもうない。

血を拭き取ってやるべきなのはこの手でなく、刀だ。

何も間違ってはいない。





そのうち係の者が後始末に来るだろうと思いながら、惨劇の現場を他人事のように眺める。

今夜の相手がどれほどの人物なのかはわからないが、斬った手応えはまるでなかった。

着物が裂ける感覚も、肉を斬った鈍い音も、吹き出した血の鮮やかさも、全て現実味がなくさめざめとしている。

「不思議。」

首をかしげてみても私の黒髪が夜風に靡きさらさらと揺れただけで、相手は微動だにしなかった。

足元に転がっているのは、さっきまで熱を帯びていた命だ。

どんな生き方をしたのかは知らないが、こんなにも呆気なく終わってしまう。

何も関係ない人間の手によって。





ふいに、無警戒な気配を背中に一つ覚えた。

刃物を抱えていないし殺気立ってもいないが、今この状態で不用心なものなんて、一体何なのか見当もつかない。

次の瞬間耳にしたのは、やる気なさげでゆっくりとした拍手。

祝う気など全くないその音は、ぽっかりと天から覗く闇に飲み込まれていく。

音を立てないように振り返ってみると、そこには白い服を着た男が一人、無表情で立っていた。

半開きの目はぼんやりとしているのに隙がなく、小さなレンズの片眼鏡は何もかもお見通しだという位透明で曇りがない。

腰には刀があるし、懐の膨らみ具合からすれば拳銃も持っているだろう。

そして、どういうわけか男はどちらも手にせず拍手を止めた。

「こんばんは、はじめまして。」

「…何?」

誰、と聞かなかったのは、この男の名前を知りたいわけじゃないからだ。

こんなところで何をしている、何をするつもりなのかということのほうがよっぽど気になる。

現場を見られた以上、場合によってはこの男も始末しなければならない。

男は表情を変えることなく、脇に抱えていた細長い箱を手にして話し出した。

「夜勤だと聞いたので差し入れを持ってきたのですが、その手では食べられそうにありませんね。」

口調は丁寧だが、声色も言葉の語尾もどこか冷たい。

白い上着に所々金の刺繍が施されているあたり、幕府関係者か官僚かといったところだろう。

「甘いものは嫌いでしたか?」

男に問われ、首を振ってそんなことはないという意志を示す。

けれど、何かを食べる気にもなれない。

最後に食欲を覚えたのは、何かを美味しいと思ったのはいつだったか。

五感は敏感になったはずなのに、味覚にまつわる記憶は全く思い出せなかった。





男は少し黙った後、距離を埋め私の手を取り、懐から出した白いハンカチで包んだ。

ハンカチはあっという間に赤で汚れ、男はそれを気にするでもなく箱を開けてドーナツを一つ取り出し、私の口元へと運ぶ。

ドーナツからは、砂糖と油が混じり合う甘ったるい匂いがした。

「おいしいですよ、どうぞ。」

訝しげに男を見ても、男は半開きの目でドーナツと私をじっと見ているだけだ。

足元に広がる非日常には興味がないらしく、それについては一切触れない。

その目つきが癪に障って、男の指まで食べてしまいそうなほど勢いよくドーナツを齧ってやった。

「いい食べっぷりですね。」

男は笑わないし、話し方に色はない。

ドーナツは甘く、口の中を砂糖と油で満たした。

黙々と咀嚼をしていると、男は淡々とした口調で話し続ける。

「白い服に血がつくとなかなか落ちないですよ。もう少しエリートらしく斬ってください。」

窘められているはずなのに嫌な感じがしないのは、きっと鼻の周りに糖分を近づけられたせいで鉄の匂いが薄まっているからだ。



「この制服が嫌いでなければ、私と一緒に来てくれませんか?」

その言葉を聞き終わった瞬間、咀嚼し終わったドーナツをごくりと飲み込む。

そのせいで、首が縦に動いてしまった。



ただ、それだけのはずなのだ。










to be continued…



その手で賽は投げられた。


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