【re:white Ver.】 強請った分だけくれてやる。 欲だろうが、明日だろうが。 宵の口から降り始めた雨は、乾燥した世界にしとしとと湿り気を与える。 おかげで埃っぽい空気と凍てつくような寒さは和らぎ、穏やかな夜がもたらされた。 傘を差すのが億劫なのと星が見当たらないのが少々引っかかるが、こういう夜は嫌いじゃない。 冬の終わり、雨の夜。 雨が降る度に春へと近づき、気温は温くなっていく。 耳に優しい雨音は、心の奥深くまでゆっくりと何かを染み込ませているようだった。 「雨かよ…」 会社を出た俺は、夜空を見上げながら片方の掌で胸の辺りに浅い椀を作る。 音もなく降り続ける小雨は、ビル街を優しく包み込んでいた。 濡れたまま物も言わずにじっと空を眺めているのは、無機質なコンクリート。 分厚い雲が空に浮かんでいるせいか、夜だというのに妙に明るい。 このくらいの降り方なら、駅まで傘を差さずに歩いても問題ないだろう。 アパートの最寄り駅に着いた時点で雨がひどいようなら、コンビニでビニール傘でも買えばいい。 それに、今夜はきっとあの場所にアイツがいる。 一度そう思ってしまえば、寄り道せずにまっすぐ帰るなんてありえなかった。 「人生、寄り道しかしてねーよなホントに。」 雨のせいで爆発しきった銀色の天パをわしゃわしゃと掻きむしってから、濡れるのも気にせず革靴で一歩踏み出す。 雨に打たれたなら髪もどうにか落ち着くだろうと楽観的な思想をしつつ、小走りで駅へと向かった。 コートの下はスーツを着ているせいで、身体は重く走りにくい。 それでも前に進む。 先が見えなくとも、約束などなくとも。 辿り着いた場所は、やっぱりここだった。 焼き菓子やカラメルソースの甘ったるい匂い、チョコレートの舌触りまで感じ取れそうな苦みのある香りが垂れ流れてくる空間。 見た目は愛くるしいケーキ屋を装った建物だが、日付が変わる時間だというのに煌々とした明かりが外へ漏れている。 この時期、こういった類の店は眠らない。 俺は湿ってしまったコートや鞄についた水滴を軽く払い、裏口から中に忍び込む。 厨房の扉は微かに開いていて、懸命に調理器具の後片付けをしているアイツの姿がちらっと見えた。 クリスマス、バレンタインほどではないが多忙な時期、ホワイトデーも無事に乗り越えたらしく、表情はどこか生き生きとしている。 「…流石、職人魂溢れてんな。」 俺はぼそっと呟きながら、その仕事っぷりをしばらく覗いていた。 夕メシもまだ食っていないせいで口寂しく、鞄の中を手探りで漁れば棒付きの小さな丸い飴が出てきたので、無造作に口へと入れる。 人工的な苺味の甘ったるさを味わうと同時に、ここ数日のことを思い出しながら。 小さな菓子メーカー勤務の俺は、当然のようにホワイトデーも企画だの営業だのでこき使われ、やっぱり多忙だったわけで。 デパ地下でのイベントや外回りをこなしながら、時々アクセサリー売り場を横目で通り過ぎてみたが、全く気乗りしなかった。 俺は職種上ホワイトデーの仕掛け人側なのに、このイベントを乗り越える知恵がうまく思いつかない。 バレンタインの夜に食った、アイツの指を汚していたチョコレートソース。 どうせならそれくらい甘くて旨いモンでも差し入れたかったが、あれ以上の食い物なんざ甘党の俺ですら心当たりがなかった。 結局何の準備もできないまま、あと数分でホワイトデーは終わろうとしている。 ならばせめて、今日まで必死に働いてきた新人パティシエに労いの言葉くらいかけるべきなのだろう。 「入るぞー。」 重い扉は僅かに軋み、蛍光灯の明かりが視界の色を急激に変える。 「よォ、お疲れさん。」 「…坂田さん!」 ちょうど片付けが全て終わったところらしく、コイツは俺のほうへぱたぱたと走ってきた。 「坂田さんもお疲れ様です。」 見慣れたパティシエ姿からは、コイツ自身が菓子なんじゃないかと思うほど甘い匂いがして、俺の鼻孔をすぐに酔わせる。 「ホワイトデー、無事に終わったか?」 「おかげさまで何とか。今夜はよく眠れそうです。」 はにかみながら安堵する顔は、いつもよりもコイツを幼く見せた。 「坂田さんは、どうしてここに?」 「今日で仕事は一段落ついたからな。そっちはどうかと思って寄ってみた。一緒に帰るか?」 「はい。今、着替えてきますね。」 コイツは相変わらず丁寧に敬語を使い、俺を坂田さんと呼ぶ。 それも悪くはないが、甘ったるい匂いで溢れる今の状況には相応しくないと、俺の欲がじわりと疼いた。 アクセサリーを渡すでも、甘くて旨いモンを食うでもなく。 もっと別の、何かを。 「なぁ、」 次の言葉を考えながら、俺はコイツの手を取り壁に追いやって 「坂田さん?」 振り向きざま、隙だらけのコイツの口元に 「もう日付、変わっちまうけど。」 俺が舐めていた棒付きの飴をゆっくりとあてがう。 「たまには食ってみな、ホワイトデーってヤツ。」 作り手から受け取る側になったときの、コイツの動揺を楽しみたくて。 そのまま口の中へと飴をさりげなく突っ込んだ。 「…っ、」 「甘ェだろ?」 舌の上をなぞるように棒付きの飴を静かに動かせば、コイツの顔色は見る見る変わっていく。 耳はちょうど今食べさせている苺味の飴の色にも似ていて、この上なく甘そうで。 思わず食いたくなる衝動を抑えながら、俺は飴をソイツの口から取り出した。 艶やかに光る飴を再び口にすることはなく、俺は糖分を求めて唇を近づけた。 この上なく香る、コイツをの甘さを味わえる部分へと。 ひたすら交わってしまうために。 「さかた、さん」 「欲しがってみせろって。」 遠慮なんて、させてやらない。 今日という日を口実にして、一番甘いものをくれてやる。 厨房の蛍光灯の光が消える頃、雨は止み、柔らかな月の光が世界を無言で色づける。 その感覚に酔いしれながら、二人分の吐息が重なり一つになってしまうまで、俺は甘さを貪っていった。 Fin |