【taste of white】 脳内麻薬を口にする。 溶けるのは甘みか、思いか。 寒くて人恋しくて、濃厚な味を求めがちな真冬の夜中。 ビル街を通り抜ける風は厳しい冷えと鋭さを含んでいて、俺はマフラーを鼻の辺りまでぐるぐると巻いた。 夜空を見上げても、煩わしいネオンのせいで星は見えず、青白い月だけが遙か彼方から世界を照らしている。 今夜も寝ずに働く誰かを、じっと見つめるかのように。 年々早くなるバレンタイン商戦は一月末から動きを見せ始め、二月十四日まで製菓業界が休むことはない。 クリスマスを乗り越え一息ついたのも束の間、次の波がすぐに俺を飲み込んだ。 「寒っ」 終電から降り、駅からアパートまでの道のりをひたひたと歩く。 洋菓子店を何店舗か経営する会社に勤めるしがないサラリーマンの、疲弊しきった帰り道。 ここ連日の激務に参りそうになりながら、それでも何とか前夜まで漕ぎつけた。 厳密に言えば日付は既に変わっていて、バレンタイン当日になっている。 今までの人生でこの日にまつわるいい思い出はないし、こんな仕事をしている以上、祭典を楽しむ余裕もない。 ライバル店やデパ地下の視察、在庫管理、外回りに広告の打ち合わせ。 どこに行っても、大量のチョコを購入している女が山ほどいるという現実を見て。 そして、どこに消えていくのかわからないチョコを必死に売る俺達と、死に物狂いでチョコを作るパティシエ達。 甘く苦い香りを使い、他人の恋路を後押しする。 果てに待つのは、天使か悪魔か。 コンビニでホットココアのペットボトルとおでんをレジに出そうとしたところで、ふと気づく。 「…あ、そっか。」 温かい緑茶のペットボトルと栄養ドリンクも買いコンビニを出れば、耳が痛むほどの冷え込みに思わず身震いをした。 アパートは目の前だが、こんな時間でも頑張っている奴を励ましてやりたくて。 ガラにもないことを考えた俺は、大通りでタクシーを捕まえる。 ペットボトルやおでん、この感情。 何もかもが冷めないうちに。 着いた先は、勤め先の洋菓子店の一店舗。 店からは明かりと僅かに甘い匂いが漏れており、疲れ切った俺の脳をじりじりと動かす。 裏口からこっそり忍び込めば、厨房には想像通り一人だけ、熱心にチョコレートケーキの焼き上がりを待っているヤツがいた。 新米の女パティシエ。 もっとも、クリスマスとバレンタインという二大イベントを乗り越えられるのであれば、最早新米ではないのかもしれない。 「よォ、お疲れさん。」 「坂田さん」 俺はコートを脱ぎながら、厨房の隅に荷物を置いた。 「これ、手が空いたら食って。」 「え?あ…ありがとう。」 コイツは驚きながらもはにかんだ顔をして、その表情は俺の芯をほんのりと温めた。 「坂田さんは今帰り?」 ケーキは焼き上がりを待つだけだからと言ったソイツは、ペットボトルの緑茶に手を伸ばす。 俺もネクタイを緩めつつ、ココアを飲み始めた。 「そ、明日が無事終わるまで休みなし。アンタもだろ?」 「うん、でも何とかなりそう。」 クリスマスという苦行を経験したせいか、互いの距離はどことなく近づいて。 だからといって、あくまで男女の関係ではない。 まだ言葉では例えにくいところにいるのだろう。 「そういえば、前においしいって言ってくれたチョコレートケーキが今日余ってますよ。食べます?」 形が崩れちゃって、と言いながらケーキを俺の前に出してくれたコイツの指には、チョコレートソースがついていた。 「ああ、サンキュ…」 受け取ろうとした俺の鼻先をくすぐるのは、焼き上がり直前のケーキの甘さ。 出来上がっていない、それでももうすぐ、オーブンは開かれるときを待っている。 それをそのまま、俺達の関係に置き換えて。 俺の悪戯心がじわりと疼き 「悪ィ、」 甘さが欲しいとばかりに 「坂田さん?」 俺はコイツの手を捕らえて口元へと運び 「やっぱり、こっちにしとくわ。」 細い指ごと口にし、皮膚まで残さず味わい尽くす。 「…っ」 コイツは一瞬震えた後、もう片方の手で口を押さえてながら目を閉じた。 やがて俺は、その指を自由にしてやりながら耳元で囁きかける。 「チョコもいいけど、もっと甘いヤツをくれない?」 今日という日にかこつけて。 チョコや冷たい指先よりも、濃厚で甘いものを。 焼き上がったケーキの匂いが嗅覚を支配し、理性を鈍らせる。 チョコレートソースの質感にも似た夜の空気だけが、俺とコイツをとろとろに溶かしていくのをひっそりと盗み見ていた。 Fin |