【今宵、君と紡ぐのは act.1】 知りたいなら、満足するまで調べて知り尽くせばいい。 知らなくとも、納得いくまで興味の対象を探せばいい。 どちらに転んでも、無謀な人生に変わりなく。 どちらに進んでも、一筋縄ではいかない世界。 夕暮れ時から早々と姿を現した白い月は色を変え、僅かに黄色く優しい光になった。 身も凍る寒さに毎晩苦しめられるが、この時期は星がよく見え、長い夜も飽きることはない。 大晦日前に掃除をした数学準備室も、冬休みが終わる頃には既に散らかっていて。 わしとカミソリ先生の物ぐさは、数学に対する探求心の反動ではないかと思うほど。 教材を読んでいた目を休めるために窓の外を眺めれば、月が暗い闇の中で存在を示している。 「坂本先生」 古びた扉が音を立てて開くのと同時に、わしを呼ぶのは無愛想な数学の非常勤講師。 「戻ったか、カミソリ先生。」 「おでん買ってきました。」 カミソリ先生はコンビニのビニール袋をがさがさとさせ、プリントが山積みになった机の隅におでんと缶コーヒーを並べた。 「ほぉ、ありがとうな。」 わしに割り箸を渡してから、カミソリ先生は両手をあわせる。 「いただきます。」 「ごちそうになるきに。」 おでんの容器を開ければ、白い湯気と出汁の香りがふわっと鼻をくすぐった。 二人向かい合って、黙々とおでんを食べる。 互いに自分のペースで仕事をしているせいで、夜中まで校内に残ることも度々あって。 そのせいか、二人で簡単な夕食を摂る機会が増えた。 いつも必要最低限の会話しかしないが、居心地悪い思いをしたことは一度もない。 カミソリ先生の考えていることはわかりやすくて嘘もなく、わしが気遣う必要もなく。 今夜もありふれた夜が更けていくと思っていたが、話は思わぬ方向に進んでいった。 「…入試ですね。」 「そうじゃの。」 「この時期になると、いつも迷います。」 「何をじゃ?」 「生徒に対してどんな指導をすればいいのか、です。」 割り箸を置いたカミソリ先生は、おでんを残してそれきり黙ってしまう。 指導という漠然とした単語が持つのは、様々な意味合いで。 進路について生徒から相談され、うまい答えを返せないカミソリ先生の顔を何度も見てきた。 真面目さ故に、何を指導したらいいのかわからないのだろう。 わしはおでんの出汁まで飲み尽くし、サングラス越しにカミソリ先生の顔を一瞥する。 表情は読み取りにくいが、それくらいでちょうどいい。 簡単にわかるものなど、何の味気もないのだから。 「ごちそうさま。」 手をあわせたわしを、カミソリ先生の眼差しが捕らえる。 職業柄なのか、二人とも安易に答えを求めない。 苦しんで考え抜いて辿り着いた答えこそ本物だと、無意識のうちに思う節があるのだろう。 「おんしの嘘がつけない性格は、悪くないぜよ。」 「でも、」 「わしらはプロじゃ。そやつの学力も、志望校に受かるかも大概分かる。じゃが、進路指導は数学と違って正答がない。」 椅子から立ち上がったわしは、カミソリ先生の背後へ回った。 カミソリ先生は訝しげな顔をして、座ったままでいる。 「のぉ、おんしはもう食わんのか?」 「いえ…」 「わしらが行うべき指導は、やる気を引き出すことじゃき。」 言葉を紡ぎながら、カミソリ先生の右手にわしの右手をそっと重ねる。 掴んだりせずに、触れるだけ。 「この手が一人で動き出せるよう、黙って見守ってやればいい。」 冷えた耳元にわしの唇を寄せてみれば、カミソリ先生は横を向き、わしに目線をあわせる。 こんなにも近い距離にいて、手以外は交わらない。 それがわしの指導でもあり、望みでもある。 カミソリ先生の細い手が、自ら何かのために動くのを待つ。 生徒が、己を信じて動き出すように。 人間の原動力は、何にも変えられないと知っているからこそ。 「…あの」 カミソリ先生はわしの手を丁寧にどかし、再びおでんの容器と割り箸を手に取った。 「やっぱり食べます。」 「それでこそ、おんしじゃ。」 わしは手を避けられてしまったにも関わらず、あははと笑った。 カミソリ先生は不可解そうな顔を一瞬したものの、おでんを再び食べ始める。 自身の意思で何かをする。 些細なことでも動き出す。 その大切さを、少しでも誰かに教えられたらと思うのだ。 「もう遅いき、一緒に帰るぜよ。今日こそうちに、」 「帰ります。」 いつも通り、誘いもきっぱりと断られ。 すっかり空になった二人分のおでんの容器。 コーヒーの空き缶。 満たされたのは腹の中と、おんしの熱を覚えた掌で。 カミソリ先生が答えを見つけようと足掻くのを、静かに見守る。 そんな立ち位置を好むわしは、相当物好きなのだろう。 望まずにはいられない、 「わしは、おんしの手は嫌いじゃない。動くことを止めない手は、いつだって可能性に溢れてるからのぉ。」 いつかおんしの手がわしを求めてくれるようにと。 月は遥か彼方から、わしとカミソリ先生をじっと見つめていて。 まるで全てを遠くから見守っているようだと思いながら、わしらは帰り支度に取りかかった。 to be continued… |