【おわりのはなし】 地味に目立たず、変わりなく。 移りゆく時間を、君と一緒に。 煩悩の数を指折り数えてみる。 通説は百八つと言われる煩悩。 当然両手でも収まらないし、俺の場合は鐘の音でも収まりきることはない。 窓の外に広がる、澄み渡った夜空に散らばる星の数と比べてようやくいい勝負といったところだ。 「今年も終わりかぁ…。」 狭いキッチンから、居間でつけっぱなしになっているテレビを眺めつつ呟く。 紅白はトリまであと何組か。 「あっという間でしたね。」 しみじみと返してくれたのは、エプロン姿が新鮮な君。 調査会社で狂いそうなほど忙しく働いていた俺に後輩ができたのが、今年の春。 至って俺らしく、平凡でありふれた出会い。 仕事を徐々に覚えていく君の成長を見るのが、いつのまにか楽しみになっていて。 単なる先輩と後輩の関係以上の感情を君に対して抱いてしまったと気づいたのは、つい最近のこと。 地味に多忙な俺はクリスマスも働き倒し、ようやく得たのが大晦日と元旦の休日だった。 『一緒に年越し蕎麦でも食べない?』 初デートにしては随分仰々しい誘い方をしたけど、君が優しく頷いてくれたのを見て内心ほっとする。 その笑顔は俺の脳裏にしっかりと焼きつき、消えることはない。 職業柄、他人を観察したり心理を読むのは苦手じゃない。 むしろ得意だ。 でも、君とはそういうしたたかな付き合い方をしたくなかった。 欲深い俺が求めるのは、普通にありがちな幸せを噛みしめる生活。 どんなに地味だと天から揶揄されても、これだけは譲れない。 「山崎さん、洗い物全部終わりました。」 君はそう言って、俺に洗い終わった食器を見せる。 「うん、完璧。手伝ってくれてありがとう。」 俺は明日のお雑煮の下ごしらえを終えたところで、エプロンを脱ぎながら答えた。 手伝いますという言葉に甘えたのはいいものの、水仕事を手伝わせてしまったことに罪悪感を抱きながら。 大掃除を終えた俺のアパートに、君は誘われるがまま来てくれた。 せめてものお礼としてきちんとお客様扱いしたかったのに、俺としたことが大失態だ。 「お蕎麦、おいしかったです。ごちそうさまでした。」 君はにこにこしながら、山崎さん特製の手打ち蕎麦で年越しなんていい大晦日ですと付け加える。 「どういたしまして。おいしそうに食べてくれて、ありがとう。」 俺もそんな君を見ながら思わず微笑む。 少し赤くなってしまった、冷たそうな君の指先。 小さな手が、気のせいかますますか細く見える。 整理整頓された部屋、細々と流れているのはテレビの音。 端から見れば退屈なほど穏やかで、地味な俺に相応しい一年の締めくくりだ。 ちょうど一年前の今頃も新年を迎える準備を追われ、来年の大晦日もこんな感じかなと想像していた。 ただ一つ予想外だったのは、今、俺の隣に君がいること。 人生なんて、どこでどうなるのかは誰にもわからない。 偶然と必然に翻弄されながら、世界中の人達がそれぞれ泣いたり笑ったりして生き抜いた一年が終わる。 新しい一年に、ありったけの希望を託して。 「ちょっといい?」 俺は君の手をそっと取る。 「どうしました?」 君は抵抗することなく、かじかんだ指先が俺の両掌に包まれるのを見ていた。 仕事中もプライベートも疑うことを知らない君。 その危なっかしさに何度ひやひやさせられただろうと苦笑しつつ、春から過ごした時間を思い出す。 長いようで短かった日々。 巡りゆく季節を飛び越え、ここまで辿り着いたこと。 君の素直さを裏切る気は、今はまだない。 代わりに思いついたのは、先輩と後輩の関係を僅かに崩す方法。 俺の手で包んだ上から、君の指先に向けて吐息をかける。 部屋の中は暖房が効いているので息は白くならないが、じんわりと滲むような温みが君の指先をくすぐった。 「…やまざき、さんっ」 君の手にも、顔にも、徐々に熱が戻ってくる。 耳まで赤くなりかけたのを確認してから、 「今から一緒に、除夜の鐘を聞きに行こうか。」 俺らしく、お決まりの提案をした。 「除夜の鐘…」 君は長い睫毛をはためさせながら、俺の言葉を反芻する。 「そう、煩悩の数だけ鐘が鳴るから、聞きに行こう。」 もっとも、君が隣にいる時点で俺なんて煩悩まみれだけど、とこっそり思ったのは勿論内緒。 「山崎さんは何でも知ってるから、そういう話も詳しそうですよね。」 妙なところで感心する君に 「そうでもないよ。煩悩の捨て去り方とか、教えてほしいくらいだから。」 言葉を返しながら笑う俺。 神様、いや仏様、誰でもいいから教えてほしい。 感情の昂りを抑える手順を、欲の捨て方を。 君の心を手に入れる方法を。 俺は右手を伸ばし、キッチンの隅に置いてあったテレビのリモコンに触れて電源を落とす。 音がなくなる瞬間、左手で君をほんの少し強く引き寄せ、俺と柔らかく触れ合わせた。 どこに触れたのかは、君のみが知る秘密。 密やかな空気に、微かに上気した二人分の呼吸を乗せて、静寂は留まることなくどこまでも流れていった。 Fin |