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□今宵、数式と君を並べて
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【今宵、数式と君を並べて】










わかりにくいものほど、考えがいがあり。

手に入りにくいものほど、求めてしまう。

それはもはや、職業病。










澄み渡る夜空には、凛とした空気が張り詰めている。

月はしっかりとした輪郭を描き、天の高さを一層意識させた。

世界はこんなにも広い。

その片隅で世界よりもはるかに広がりを見せるのは、ヒトの脳。





「…んー」

窓の隙間から入ってきた風の冷たさで我に返る。

数学科の準備室は少し埃っぽく、文献や書類が雑然と積み上げられていて。

「まだ夜が続いちゅう、」

訛りを隠さずに呟きつつ、わしゃわしゃと猫っ毛を掻きむしる。

研究授業に向けて論文を読み進めていくうちに、うたた寝をしていたのか、時間を忘れてしまうほど没頭していたのか。

辺りはしんと静まり返り、手元の卓上ライト以外光は何もないかのように見える。

「帰らんと。」



実家は裕福で、道楽半分で教師になって。

なんとなく家を出て、一人暮らしをして。

誰が待つわけでもない部屋へ帰る準備をしようと伸びをしながら立ち上がる。

サングラスはずり落ちかけていたが、気にせずに部屋を出ようとしたとき。



ぼんやりとした明かりを、本棚の奥に感じた。

カラン、と下駄を鳴らしながら近づけば

「…あ、坂本先生。お疲れ様です。」

「やっぱりおんしか、カミソリ先生。」

想像通りの人影が見えた。



カミソリ先生。

その素っ気なさ故に、ついたあだ名も可愛げがなく。

教員採用試験の勉強をしている、数学の非常勤講師。

わしの授業のサポートもしてくれて、そのくせ自身の授業も手を抜かない、真面目かつ貴重な存在。

手元には参考書が広がっていて、試験勉強をしていたことをうかがわせる。



わしはカミソリ先生に近づいて、首をかしげながら話しかけた。

「もう夜遅いき、帰るぜよ。」

「…ほんとだ、すみません。」

カミソリ先生は腕時計を見てから、慌てて後片付けを始める。

「そんなもん明日すればええ、」

そう言い残して、窓を閉めようと手をのばしたとき



「あの」



カミソリ先生はわしを睨むように見つつ、珍しく自分から何か言おうとしていた。

いつも必要最低限の言葉で意思疎通を図ろうとするくせに、夜の闇が彼女に魔法か呪いでもかけたのだろうか。



「今日ですよね。」

「…は?」



おまけに言葉足らずが災いしてか、意図が全く読み取れない。

途中式をすっ飛ばして、解答用紙に答えだけ書かれているような気分になる。



「おんし一体、」

「以前名簿で見ました。今日は坂本先生の、」



今日。

ちらりと腕時計を眺めれば、日付は変わったばかりだった。



「…ああ、」

それ以上、何と言えばいいかわからなくなって。

「まっこと、歳を取るのは早いぜよ。」

わしは、しみじみとありふれた言葉を声にした。



なんてことのない夜。

冷たい風と、埃っぽく乾燥気味の部屋、山積みの文献と二人分の酸素。

普段笑いもしないカミソリ先生が暗がりでもわかるくらい恥ずかしげな顔をしているのを見て、思わず吹き出してしまう。

誰かに祝われることの嬉しさを、思い出す。



「笑わないでください。」

「おんし、そげなつまらんことをよく覚えちゅう。」

「つまらなくないです、っ」



言い返す姿を見てとんだツンデレじゃと笑い飛ばせば、カミソリ先生はわしに差し出しかけた手を引っ込めようとする。

わしがそれを見逃すとでも思ってるのだろうか。

カミソリ先生の手首を掴み、ずり落ちかけたサングラスに構うことなく顔を近づけて問いかける。



「わしはおんしの隙のない授業も、きっちり作成した書類も好きじゃ。けど、一番気に入っとるのは別のところじゃき。」

空気の冷たさが

「…それって」

闇の暗さが

「それくらい解けんようじゃ、まだ一人前にはなれんのぉ。」

感情を、徐々に加速させる。



沢山の数字がさあっと動き出すような、始まりの感覚。

答えはずっと先にあり、どんなに難解でも解かずにはいられない。





「送ってくから、帰るぜよ。それともウチに泊まるかえ?」

軽い話し方をすれば

「帰ります。」

カミソリ先生は必死にその刃を研ごうとする。

切れ味が鋭いほど身体の奥まで癖になる痛みが届くと、知ってか知らずか。

「いい返事じゃ。」

ずれたサングラス越しに顔を覗きこめば、ほんの少し目を逸らされる。



掴んだ手は、離さないまま。







取り組み甲斐のある問題に出会えたことに小さく感謝しながら、わしはカミソリ先生の手の感触を確かめつつ、準備室の扉に手をかけた。










Fin





〜2011.11.15 Tatsuma's birthday〜


 

 

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