【生ける屍のお話】 できないなんてことはない。 ただ二の足を踏んでしまうだけ。 君なら、今からでもまだ遅くない。 だからどうか、気づいてほしいと。 真夜中、まるで病気かのように毎晩家を抜け出して近くの墓地に通いつめる。 そこは暗く木々が茂っていて、なんとなく寂しい場所だった。 怖いとか気味が悪いとか、そう考えたことは一度もなかった。 もし会えるなら、どんな形でも会いたかった。 夢にさえ出てきてくれない私の元恋人は、この十字架の下に眠っている。 呆気なく事故で死んでしまった、何も話せなくなってしまった、抱きしめてくれなくなった、私の。 「ばーか」 今夜も私は十字架の前で悪態をつく。 お別れくらい言いたかった。 仕事で地元を少し離れている間に彼は亡くなり、土の中へと還っていってしまった。 蝉みたいに七年経ったら地上に出てくるとか、そういう生き物だったらよかったのに。 現実はいつだって、都合よく進んではくれない。 「…それは失礼なんじゃない?」 ふいに背後から若い男の声がした。 残念ながら私の彼の声とは全然違ったけれど、優しくて労るような雰囲気の声。 恐る恐る振り返れば、泥まみれで手足に包帯を巻き、肩上ではねた髪が印象的な、ぼろぼろの服を着た男が立っていた。 目だけが色を失っていない。 どこまでも黒く、底がなく。 「…アンタ、誰?」 「君はどこまでも失礼だね。アンタ、じゃなくて、せめてあなたにしておこうよ。」 男は呆れたような顔をして、小さな溜息をついた。 非常識な時間に非常識な場所で非常識な格好をして、女に話しかけてくる変な男。 その変な男と話している変な女は、私だ。 「俺のことはどうでもいいから。その人、最期に君の名前を呟いていたよ。魂が、ここから旅立つ前に。」 「…何それ。」 「俺は基本的に土の中にいるから、そういうのが聞こえるの。その人は君に会いたがっていたよ。」 男の言葉の意味はよく理解できなかったけど、会いたがっていたという言葉は、私の身体の中の奥深く、痛むところをちくちくと刺す。 「…ばか、」 私は語彙力のない女だ。 おまけに素直でもない。 彼に対しても汚い言葉を並べて、その響きや雰囲気を彼が勝手に読み取り解釈してくれて。 「大好き」とか「愛してる」とか、思っていても言ってあげることができなかった。 いつでも言えるからとか、格好悪いからとか、くだらない理由を山ほど積み上げて。 彼の優しさに甘えたまま。 「ばか、だよ…」 この一言に、全ての感情を集約してしまっていた。 ソイツは何をするわけでもなく私が泣きじゃくるのを眺めた後で、淡々と話す。 「俺も口下手だし、別に何ができるってワケじゃない。」 「…何が言いたいの?」 「生きてた頃はごくごく普通の地味人間だったし、仕事が忙しくて休みもないし、彼女もいないし。特技はあんぱんを投げつけることくらいだ。」 ますます理解しにくい言葉を並べてきて。 「どういうわけか、夜な夜な徘徊できる身体になっちゃったけどね。君みたいな彼女がいた、この人が少し羨ましい。」 そう言った男は泥まみれの汚い両手で、私の手をそっと包んだ。 涙は、それこそ馬鹿みたいに止まらなかった。 「今だけ、彼の代わりになってあげる。…俺も久々にあったかいものに触れたかったんだ。」 男は寂しそうに笑いながら話し続けた。 「でも、明日からは毎晩ここに来ちゃダメだよ。時々にしてあげて。彼も行くべき場所に行きにくくなっちゃうから。」 ああ、コイツ、なんだか似てる。 「…っ、大好き。だいすきだったよ、」 しゃくりあげながら、何とか言葉にして感情を吐き出した。 目の前にいる男とここにはいない彼は、全部許してくれそうな笑い方をするところが、たまらなく似ている。 大好き。 上手には言えなかったけど、口にすれば簡単な言葉だと内心驚けば、汚い男は綺麗に笑った。 「…うん、ちゃんと伝えておく。だから安心して、生きて。」 涙が溢れて視界が悪くて、うまく呼吸できなくて。 瞬きを何回かしたところで、朝の気配を感じた。 ぬくぬくとあたたかいベッドの中、涙が乾いてぱりぱりと音をたてそうな睫毛。 「…夢かな、」 ぼさぼさの髪の毛を手櫛で梳かそうとして気がつく。 私の手を汚している、固まりかけた泥の存在に。 そのままベッドから起き上がりカーテンを開ければ、今日も相変わらず太陽の光が眩しく世界を照らしていた。 「…うん。」 よくわからないまま、一人で頷く。 この泥も、乾いた涙の跡も、洗えば簡単に落ちてしまうけど。 目に見えるものは、何も残らないけれど。 「…ありがと。」 本当に大切なものだけ抱えたまま生きていけるような、そんな気がした。 Fin |