目を開き歯を立てて、骨の一つも残さずに。 太陽が西に沈み、硝煙が夜風に流される頃。 長引く戦の疲労を誤魔化すため舌打ちをすれば、身体は一層重くなった。 埃にまみれた革靴を履き、覆い茂る深緑に身を潜めながら、火の手が上がるのをじっと待つ。 戦の最前線に立つのは勿論疲れるが、実はこれもなかなか辛い。 やはり攻め戦が俺の性に合うのだろう。 息を殺して、目を懲らす。 日暮れ前、自らが敵陣に忍び込む作戦を提案したのは他の誰でもないあいつだ。 男物の袴を着て刀を振るい、窮地に陥ったときほど己を犠牲にして起死回生を図る腐れ縁の女。 あいつの存在は、失ってばかりの人生で唯一惜しい。 そう言えたら、どんなに楽か。 救いたかった命があった。 恩師を助けるため戦場へ乗り込み、一心不乱に正義を貫く仲間がいた。 しかし、事の顛末は呆気なかった。 先生の骸と対面した俺の絶望を後押しするように、戦の目的を失った仲間逹は次々に戦場を後にする。 それでも気を落としている暇はない。 振り向くな、駆け抜けろ。 安っぽい復讐心に支えられながら今日まで生き延びたなんて、情けなくて誰にも言えなかったとしても。 白夜叉の異名を轟かせた男や狂乱の貴公子と謳われた男はもういない。 ただ、己の性を忘れて戦うあいつだけが、俺の隣に立ち続けていた。 ここ数日は雨なんて一滴も降っていないはずなのに、空気はじっとりと湿気ている。 額に滲み出た汗を掌で拭えば、焦燥が露わになった。 「…まだか」 できれば日付が変わる前に夜襲を終えたかったが、どうやらそうもいかないらしい。 連日休みなく動かしていた鬼兵隊を残し、あいつと俺だけで相手の拠点を突く。 単純かつ危険度の高い作戦は、決行を予定した頃合いを一刻以上過ぎていた。 夏の夜の短さからしても、失敗なら早く引き返したほうがいい。 冷静にそう考える一方で、この夜襲が成功したなら、あいつに渡したい物があった。 蝶の刺繍が施された、品のいい着物。 数日前、買い出しに行った町の呉服屋で見つけたそれは、まだ子供だったあいつのお気に入りによく似ていた。 紫に染められた絹と、さりげなく目を惹く金糸の刺繍。 上等な布地で肌触りも悪くない。 これならあいつも再び袖を通す気になってくれるだろうか。 期待と不安を誤魔化すために、着物をそっと抱えてみる。 攘夷戦争が始まってから、あいつの着物姿を一度も見ていない。 戦いにくさ故着物に袖も通さなくなり、和服を全部捨ててしまったと言っていた。 勿論その心意気は讃えてやるべきものだろう。 だが、俺はあいつの着物姿を見たかった。 日をまたげば、俺も一つ歳を取る。 誕生日を祝ってほしいなんて思いもしなかったが、綺麗な格好をしたあいつを久々に小突いてやりたい。 柄にもなく芽生えた悪戯心は、ここ何日かで随分大きく育ってしまった。 蝶の刺繍を眺めて笑うあいつの顔が、懐かしくて仕方ない。 今はもう、その表情など思い出せなくなるほど遠い場所に立っているとしても。 「遅い…」 今まで数え切れないほどの夜襲を繰り返してきたが、こんなに音沙汰ないのは初めてかもしれない。 気づいてしまったら最後、嫌な予感が頭の中を駆け巡る。 もしかしたらあいつの身に何か起こったのだろうか。 そう考えながら、一歩、二歩と敵陣に向かって歩き出したそのときだった。 高らかに警笛が鳴り響き、辺りが急に騒がしくなる。 これはもう、撤収するしか道はない。 「無事に帰れたら上出来、か」 幾人もの足音が聞こえるほうへと、夜目を利かせて素早く走る。 すると、そこには息荒げに刀を構えるそいつと、そいつを囲む連中がいた。 「おい」 「晋助…?」 敵に声をかけたつもりはないが、一斉に俺を見たのは連中のほうで、咄嗟に刀を抜けばそこは一気に修羅場となる。 一人、また一人。 俺もあいつも連中を斬り、やがて誰の呼吸もしなくなった頃、俺はそいつの手を引いた。 「ごめん、意外と相手の数が多くて」 「話は後だ」 敵前逃亡は癪に障るが、状況からすれば一刻も早くここを離れたほうがいい。 そう判断した俺の眼前に、一筋の刃が走る。 「危ない…っ!」 こんな暗がりの中で、細く鋭く、白い光が。 後の出来事は、正直なところよく覚えていない。 僅かな隙を見逃さずに相手を斬り伏せ、取り乱しているそいつの手を強く引き、灯り一つない獣道を無我夢中で走った。 呼吸は荒く、喉は渇いて、立ち止まれば死ぬだけだ。 「しん、すけ」 呼ばれた名前だけが頭の中で反芻している。 息を切らせているそいつが、俺に何を話しかけたのかも思い出せない。 否、全て忘れたいのだろう。 惚れた女が俺の顔を見て泣いているだなんて、くだらないにも程がある。 拠点にしていた古寺に駆け込み、一度座り込んだら最後、俺の記憶はぷつりと途絶えてしまう。 このまま目覚めなければいい。 一瞬そう祈ったが、世界はどこまでも俺に味方しなかった。 左目の疼きが、俺を現実へと確実に引き戻す。 真っ暗なのが夜のせいではないと気づいたのは、ゆっくりと身体を起こした後だ。 傷は他にもあったかもしれないが、掻き毟りたい衝動を覚えたのは左目だけで、恐る恐る顔に指を這わせてみる。 「…潰れたな」 片目で済んだだけマシだと、俺一人なら思えたかもしれない。 けれど目の前に用意されたのは、俺が最も拒んだ光景だった。 先生のいない世界で、失うものなんてこれ以上何もない。 己の愚かさを甘く見た罪と罰は、俺の隣に転がっている。 そいつは寝息を立てていた。 外から漏れてきた月明かりに照らされた顔には、泣き腫らした痕跡が残されている。 よく見慣れた男装と、不格好に切られた髪。 手を伸ばし、触れてみる。 指を絡めようとしても、そこにあった髪はない。 俺もこいつも決定的な何かを失ってしまった。 辿ってきた獣道が、いつしか獣すら行き交わないところまで俺達を連れてきてしまったのだ。 右目で辺りを見渡せば、こいつの残骸が束になって落ちているのを見つけた。 「…生きるも地獄か」 切り落とされた髪が無言で俺に語りかけてくる。 こいつは自ら女の道を捨てたのだ、と。 ならば、俺の願いも捨てるべきだ。 俺は静かに立ち上がり、奥の間へと足を運ぶ。 桐の箱から取り出したのは、こいつに渡すはずだった着物だ。 紫の布地に金糸で縫い付けられた蝶は、俺の手で飛ばせばいい。 あいつがあいつを捨てるなら、俺も俺を捨ててしまおう。 返り血に塗れた服を脱ぎ、丈が足りない着物に腕を通してみる。 着物の裾は夜風を受け入れ、戸惑うようにはためいた。 羽を動かせもしない蝶を背負って生きる覚悟はあるか。 そう尋ねられたら、俺は敢えて笑いながら答えるだろう。 毒にも薬にもなれず心中さえできないなら、いっそ。 「食っちまうしかあるめェよ」 嘘と共食い Happy Birthday to Idealist… |