どうせ踊ってみせるなら、氷上の舞台が溶けるまで。 電光掲示板が数時間前を表示したまま変わらない金曜の夜。 妙に明るい夜空は星もなく、強い風が雪をあちこちに振り撒いている。 曇りガラスを少しだけ擦ってみると、街は建物の外観がわからないほど一面真っ白に覆われていた。 当たらなくていい予報ばかり当ててしまう天気予報が恨めしい。 最寄り駅まであと数駅というところで電車は止まり、混雑した車内に運転見合わせのアナウンスが流れる。 運転再開時刻は未定と言われた以上仕方ない、帰れないなら帰れないなりに一人酒でもしてみようか。 幸い明日は久しぶりの土曜休みで、朝帰りも問題ない。 萎みかけた心を奮い立たせて、北風が吹き抜けるホームに降り立つ。 定期券を探すためにバッグの中へ手を突っ込むと、覚えのない触り心地のものに行き当たった。 それが何なのか把握する前に、今一番見たくないものが見えてしまう運の悪さは呪うしかない。 「見なかったことに…できないか」 紺の包装紙でラッピングされた箱は、リボンに金具飾りがついている。 金色に光る丸いそれは、四年に一度行われるスポーツの祭典を思わせた。 そういえばフィギュアスケートが始まるのは何時だったか、それよりも先に適当な居酒屋を探したほうがいいのか。 あれこれ考えつつ携帯電話を握りしめてロータリーに向かうと、居酒屋より先にタクシー乗り場が目についた。 それほど待たないなら、タクシーで帰ってもいいかもしれない。 すぐに帰るか朝まで飲むか、一瞬迷ったそのときだった。 「何してんだ」 聞き慣れた声でそう言われると、現場で問題を起こしたわけでもないのについ身体が固まってしまう。 一番見たくないものの次は一番会いたくない人だなんて、間違いなく今日は厄日だ。 できるだけ平静を装って振り返れば、案の定そこには予想通りの人がいた。 私と同じ班に所属する、厳しくて無愛想なSPが。 「こんばんは、土方さん。今帰りですか?」 「まァな」 「家、このへんでしたっけ」 「ああ。オマエは確か」 「最寄り駅まで電車が動きそうもないので、朝まで飲もうかと…それじゃ失礼します」 動揺する心に反して、当たり障りない言葉は次々に溢れ出す。 我ながら上出来、三回転ジャンプ成功、そんな気分だ。 ただし、リンクに送られたのは拍手でも賞賛でもない。 彼の声はいつだって、私を現実に連れ戻す。 「おい」 「…何ですか?」 「行くあてがないなら、泊まってけ」 タクシーで数分もかからない場所に、土方さんのマンションはあった。 整理整頓された部屋は彼の性格そのもので、生活臭は殆どない。 リビングには大画面のテレビと座り心地のいいソファー、テーブルがあるだけだ。 「期待を裏切らないというか…綺麗ですね」 お邪魔しますと頭を下げた後、改めて周りを見回していると、土方さんは座ってろと言い残してキッチンへ向かう。 「コーヒーでいいか」 「あ、はい。あと…テレビを見てもいいですか?」 「好きにしてくれ」 ソファーの端に座ってテレビの電源を入れると、タイミングよくフィギュアスケートの中継が放送されていた。 金メダル候補と噂されている選手の出番はもうすぐだ。 この選手とは比べ物にならないけれど、今の私だって相当緊張している。 チョコをあげようとしていた相手の家で、コーヒーを待ちながらテレビを見ているなんて。 実は全部夢でしたなんてオチでもおかしくないのに、頬をつねってみるとしっかり痛い。 土方さんはSPのお手本みたいな人だ。 剣道やマラソンといった体力作りは毎日欠かさないし、上からの命令に忠実で、判断力もずば抜けている。 要人に対する気遣いも細やかで、出来の悪い後輩の指導だって抜かりない。 おかげで、失敗の多い私が彼に注意されない日はなかった。 信念や理想は表に出さず、行動で示す。 そんな土方さんを目で追ううちに、いつのまにか尊敬とは別の感情が生まれていた。 気づいたときには手遅れなんて、全くもって情けない話だ。 本当は、駅で土方さんと会った時点でチョコを渡して帰ってしまうという選択肢もあった。 けれどあの状況でそんなことをしたら、待ち伏せていたと思われてもおかしくない。 それに折角好きな人の家に招かれたのだ。 断る理由なんてどこにもない。 「これが渡せればね」 ソファーの横に置いた鞄からチョコレートの箱を取り出すのも、つい溜め息混じりになってしまう。 見た目も味もそれぞれ違う五粒のチョコが行儀よく収まった、正方形の箱。 中でも粉砂糖がまぶされたコニャック入りのトリュフなら、甘いものが苦手な土方さんでも大丈夫かもしれない。 そんな淡い期待をしながら箱を眺めていると、土方さんがコーヒーを運んできてくれた。 香ばしい香りから遠ざけるように、手にしていた箱は咄嗟に背中へ隠してしまう。 土方さんもソファーの端に座り、二人の間には一人分の距離が生まれた。 「悪ィ、ミルクも砂糖も切らしてた」 「平気です、ありがとうございます」 マグカップに並々と注がれたコーヒーは、底が見えない。 そっと口をつけてみると、舌の上に苦味がじわりと広がった。 「フィギュアスケートか」 「そうなんです。知りませんでした?」 「ニュースで見る程度だな、最近は大雪続きでそれどころじゃなかった」 確かに足場の悪いところで行う警護は普段の数倍疲れるし、交通機関の乱れのせいで車を運転する時間も長い。 天使のような顔をした悪魔のサディストも文句ばかり言っていたし、ここ何日か顔を見ていない地味で多忙な同僚もいる。 「オマエは夜中にこんなの見てるから、昼間眠そうなんだろ」 「そういう話は置いといて…ほら、始まりますよ」 こういうとき、テレビは便利だ。 何も喋らなくても気まずくならないし、画面に集中しているだけでいい。 唯一問題なのは、これが映画ではなく数分で終わってしまうスポーツだということだ。 フリーの演技はあっという間に終わり、選手はリンク脇のスペースで結果発表を待っている。 いくら金メダル候補と謳われても、ミスが一つもなかったわけじゃない。 点数が出るまでは、生きた心地がしないはずだ。 決着がつけば、あの選手は楽になれるのだろうか。 泣いても笑っても、結末さえもらえたら。 土方さんへチョコを差し出す手は、幸か不幸か震えていない。 渡すなら、今だ。 「これ、よかったら一緒に食べませんか?」 「俺がそういうの好きだと思うか?」 「…そうですよね」 敗北があまりにも率直すぎて、後に続ける言葉が見つからない。 終わった、メダルどころか入賞すらできなかった。 それでも目の前のチョコをどう処分するか悩む余裕はまだある。 受け取ってもらえないチョコなんて、いっそ私がこの場で食べてしまうほうがいいのかもしれない。 包装紙を丁寧に破り、コニャック入りの粉砂糖がかかったトリュフを摘み上げてみる。 涙は出ない。 鼻の辺りがつんとするのは、演技に感動したからだ。 やがて得点が発表されたのか、テレビから歓声が沸き上がった。 「決まったな」 「ああ、金メダルですか…っ」 おめでとうと言うより先に、チョコを持った手は手首ごと掴まれて、ゆっくりと引き寄せられる。 それから後は、テレビの音声なんて全く聞こえなかった。 私の指からトリュフを綺麗に食べつくす土方さんの舌先に、思わず目を奪われる。 彼の唇が微かに触れた指先は冷たく、感覚がない。 四回転じゃ済まないほど、思考はぐるぐると回っている。 私の手をようやく離した土方さんは、口元を親指で拭いながら顔をしかめた。 「甘ェ」 「…チョコですから」 「人の話は最後までちゃんと聞け」 「お説教なら現場で十分聞いてますけど」 「甘いのは苦手だ、残りはオマエが食えばいい。代わりに、」 トウループ、ルッツ、アクセル。 ハイライトの映像が流れる前に私の顔を覗き込んだ土方さんは、唇を近づけながら小さく笑った。 「こっちは全部俺が食う」 キスアンドクライ Happy Saint Valentine's Day!! |