【遠い日の心臓】 置き去りにした鼓動を拾えば、あの日の俺は笑うだろうか。 天空に散りばめられた星が、ちかちかと地上を照らす秋の晩。 鈴虫の声が冷えた空気を呼び、月光は足元に道標を描き出す。 導かれた先に何があるのか、今の俺は到底わかりそうもない。 血生臭さと硝煙の匂いが溢れて、嗅覚はおかしくなっていた。 永禄山の戦いで負傷した仲間を逃がそうと一人奮起したのが昨夜のこと。 ヅラ達と合流できないまま山中の獣道を歩いていた俺は、力尽きる寸前だった。 命が惜しいなんて考えたこともないが、戦場で死にきれないのは運がいいのか悪いのか。 一歩二歩と前に踏み出すのも面倒になった俺は、息を切らしたまま山の上にある古びた廃寺で足を止める。 進むのを一瞬でも放棄してしまえば、後は転がり落ちるだけだ。 空腹も重なりふらふらとおぼつかない足取りで、背中を預けるものを探す。 門か柱か、この際山賊の骸でも何でもいい。 そんなとき、寂れた寺に相応しくない蜜の香りが鼻についた。 蜜を抱えた木の下で、絡まり合う幹に寄りかかって座り込む。 頭上を見上げれば、暗がりに橙色の小さな群れが広がっていた。 「金木犀か…」 独り言を呟いただけで、無駄に息切れしてしまう位には血が足りないらしい。 最後に握り飯を食ったのはいつだったか。 今晩は十月になって何度目の夜なのかと目を瞑り記憶を遡れば、迫り来る明日が何の日なのかおぼろげながら察してしまう。 めでたいと思ったことなどない。 生まれてしまった、それだけだ。 「生まれた日にくたばるってか」 「生まれた日…誕生日?」 吐き出した言葉に反応されて、仕方なく目を開ける。 聞き覚えのない人間の声は、無意識のうちに刀の柄へと手を運ばせた。 焦点を合わせたが、暗がりで相手の顔もロクに見えない。 立っているのにさほど背丈がないのと丸腰という警戒心のなさから言えば、女子供の類だろう。 僅かに首を傾けたソイツの髪はさらさらと軽く揺れ、木の葉の舞いを思わせた。 「お侍さん、誕生日なんだ」 「…まぁな」 血に濡れた忌まわしき者、白夜叉。 戦場でそう喩えられる俺を、まだ侍と呼ぶ人間がいることに驚きながら相槌を打つ。 投げ出した足の上に跨ったソイツは、俺の顔をまじまじと覗き込んだ。 「もう死ぬの?」 「勝手に殺すな」 死ぬのかと無遠慮に問われ、咄嗟の返事が生への執着だなんて全くもって馬鹿げているのに、笑い飛ばすだけの体力もない。 ソイツは俺の上に座り込んだまま、煤けた頬をごしごしと片手で擦っている。 俺の腰にある刀が見えていないのか、はたまた斬られるのを覚悟しているのか。 おまけに、コイツの身体は見た目よりもずっと軽い。 そういう意味でくたばりそうなのは俺とコイツのどちらなのだろうとぼんやり考えるが、悪態をつく余裕はなかった。 目障りだ、ここから立ち去れ。 手短に済ませられる話なのに、唇が動かない。 反応を窺っていたソイツは、何もかもを見透かす目をして、俺の胸に小さな頭をゆっくりと押し当てた。 「…本当だ、生きてる」 俺の左胸にぴたりと耳をあてた、命あるもの。 羽織越しに伝わってくる体温が妙に心地よく、金木犀の甘さを引き立てる。 朦朧とする意識は徐々に薄れていくのに、恐怖心は微塵もない。 ただ、柔らかな香りが思考を遠くへと押し流していった。 その後のことは何も覚えていない。 気がついたときには朝を迎えていて、ヅラや無事に逃げ延びた連中が俺を取り囲んでいた。 皆で山の麓の小さな村にいたところ、一人のガキがやってきて、俺の居場所を教えたそうだ。 もっとも、肝心のガキはヅラが一瞬目を離した隙に行方をくらませたらしい。 金木犀の香りだけ、足元に残しながら。 歳を取れば取るほど、十年なんてあっという間だ。 遙か未来だと思っていた日々は、こうして呆気なく掌の中に収まっている。 月明かりは薄汚いネオンを照らしても尚、透明で無垢な光を放っていた。 夏に比べて出番が長くなった夜が、朝日を待ち望むのもこの時期ならではだろう。 日が短ければ、酒を酌み交わす時間もほんの少し長くなる。 くだらない言い訳を肴にして飲み比べを楽しんだ俺とコイツは、酔い覚ましにと月が照らす夜道を二人で歩いていた。 真選組で唯一の女隊士であるコイツの帰る場所は、むさ苦しい男所帯の屯所だ。 チンピラ警察共はうざったいが、いくら女隊士とはいえ見送らなければ男が廃る。 何より、僅かな時間でも一緒にいたいと思える仲だ。 惚れた弱みだと観念しつつ、いつものように屯所の明かりを目指していると、ソイツは唐突に昔話を始めた。 「十年前って、銀さんは何してた?」 「さァな」 「聞いてるんだから答えてくれてもいいのに」 「過去にはこだわらない主義なんだよ」 「狡い」 「で、どうした?」 「毎年今頃になると思い出すんだよね。昔、身寄りがなくなったときに一人で武州まで行ったときのこと」 「ああ、おたくのゴリラが遠い親戚だったってやつだろ」 「うん。そのとき、攘夷志士みたいな人を沢山見たんだ。皆、生きてるのか死んでるのかわからないくらいぼろぼろだった…」 酒が回っているのだろう、いつもなら触れない過去に対してもやけに饒舌なソイツは、屯所の塀を前にして立ち止まってしまう。 そこには、大きな金木犀が塀の上に姿を見せていた。 甘ったるい匂いが充満し、あっという間に懐かしさで包まれる。 「銀さん、」 瞬きも許されないほど、刹那のことだ。 距離を詰め、俺の胸に耳を当てる仕草。 着物越しに伝わる、柔らかく甘い体温。 俺の心臓は、今もしぶとく動いている。 遠い昔の記憶から、何一つ変わらずに。 「生きててよかった」 「…オマエ、あのときの」 「何?」 「いや、何でもない」 「変なの。…ねぇ、銀さん」 「どーした」 「誕生日おめでとう」 ありふれた言葉を、何でもない夜に受け取る。 それだけで救われることもあると、十年前から知っていた。 「…ありがとな」 遠い日の心臓は、今夜にようやく辿り着く。 明日の鼓動は生まれたときから変わらない。 とくとくと身体中を巡り、生きる証になっていく。 淡い思いは、蜜が滴る金木犀が抱えたものだ。 奥歯で笑みを噛み殺した俺は、金木犀のように小さな口づけをコイツの旋毛に一つ落として目を閉じた。 Fin 未だ胸を打つのは、甘く儚い君の残骸。 |