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□勧酒
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【勧酒】





使い古した盃に、溢れんばかりの言霊を。










ありふれた夏の晩、草木も眠る丑三つ時。

憂いなど露知らず、背丈も低いガキの頃。

厠を済ませた俺は、寝ぼけ眼でひたひたと廊下を歩いていた。

夏とはいえ、夜になれば日差しがない分ぐっと涼しくなる。

遠くから牛蛙の鳴き声が響いていたが、いつからか気にならなくなっていた。

板張りの廊下はみしみしと鈍い音を立て、開けっ放しの縁側からは月や星がよく見える。

蜜色の光が世界を淡く染める様子は、幻影の如く儚げだ。

そして、縁側には手酌をするあの人の姿があった。

「おや、こんな時間にどうしましたか?」

「…厠です。」

「勘のいい晋助のことだから、この匂いを嗅ぎつけてきたのかと思いましたよ。」

「先生こそ、ここで何をしてるんですか?」

「大人のたしなみです。どうですか、晋助も一杯。」

「俺はまだ、大人じゃありません。」

「そう言わず、隣に来てごらん。」

この人は、月と同じ尊さを秘めている。

先の見えない闇を、おぼつかない足元を、そっと照らす月の光そのものだ。

微笑みながら手招きする松陽先生に引き寄せられた俺は、黙ったまま先生の隣に座った。

欠伸を噛み殺していると、先生は枡に入った飲みかけの酒を飲み干し、横に置かれていた一升瓶から注ぎ足していく。

満ち足りた枡は、夜風で揺れる湖の水面を想像させた。

「ここに月が浮かんだら、さぞかし綺麗でしょうね。」

「そうでしょうか…?」

「私は意外と夢見がちなんですよ。教え子である皆に伝染していなければいいのですが。」

枡の中を見つめる先生につられて、俺もそれを覗き込むように身体を寄せる。

澄んだ水のような酒は、月も星も沈んでいないのに、なぜかきらきらと輝いて見えた。

今思えば、未知なるものへの錯覚がそう見せたのだろう。

どうやら俺は、このとき既に相当な夢想家だったらしい。

「少し飲んでみますか?」

「だからまだ、俺は大人に」

「子供だとも思っていませんよ。」

先生は穏やかに、けれどしっかりとした口ぶりで俺の話を遮る。

「都合の悪いときだけ子供になって、都合のいいときは大人のふりをする。」

「そんなつもりじゃ…」

「晋助は賢いから、楽なほうへ逃げる術も知っているでしょう?」

図星だった。

否定しようとしても、言葉が続かなかった。

理解できない学問は退屈しのぎの顔をして聞くようにしていたし、誰かと仲違いすれば気にしていないと体裁を整える。

先生はそんな俺の愚かさを、ずっと前から知っていたのだろう。

「それでも、正しいと思ったことを懸命に信じようとする。私は晋助のそういうところが好きです。」

大の大人が、子供に対して好きだとごく自然に打ち明けられる。

さりげなくそう言える正直さが松陽先生らしかった。

「少し舐めるだけなら大丈夫ですから。」

目の前に差し出された枡を受け取り、手が震えないよう注意しながら、枡に顔を寄せる。

恐る恐る味を確かめれば、舌先にぴりりと刺激が走った。

「…っ、」

慌てて舌を引っ込めると、先生は俺の頭を撫でて、慈しむ目をしている。

嬉しそうな、それでいて消えてしまいそうな、独特の雰囲気を醸し出しながら。

「消毒液みたいな、痺れる味がします…」

「ふふ、晋助にはまだ少し早かったですね。」

「先生はこれが好きなんですか?」

「ええ。いつかあなたたちと飲み交わせる日が来るのを楽しみにしてますよ。」










次に瞬きをしたときには、頭がずきずきと鈍く痛んだが、それが意図的なものだと気づくのにそう時間はかからなかった。

暗闇の中で夜目が利くようになったのも、度重なる夜襲のおかげだろう。

身体中が埃っぽく、軽い疲労感に見舞われている。

二、三時間眠ればすぐに回復する、そう見なして宴会を抜け出し仮眠を取っていたのも束の間だった。

「あ、ワリィ。」

硝煙と血の匂いが取れないまま雑魚寝していた俺を蹴飛ばしたのは、同じく血生臭い格好の銀時だ。

鉢巻きに付着した返り血は何度洗っても落ちず、戦地で見る白装束は夜叉というより亡霊の類に見える。

「…テメェ、絶対にわざとだろ?」

「違うっつーの。こんなところで寝てるヤツなんて普通いないから。ここどこだかわかるか?寺の外だぞ?」

攘夷志士の拠点とした山奥の古寺には、敷地の入口に煤けた門がある。

何年前に建てられたのかわからないそれは屋根があり、見晴らしもそこそこいいので、敵の動きを把握する場所としては最適だった。

「ったく、奇襲が成功したからってこんなところで寝てんじゃねェよ。」

「オマエに言われる筋合いはない。」

「とにかく俺は謝ったからな、それじゃ…」

「それは何だ。」

言い逃げる格好になった銀時の手首をすかさず掴んだのは、足蹴にされたことを恨んでいるからではない。

コイツがしっかりと手にしているのは、紛れもない一升瓶だ。

おまけに値の張る有名な銘柄で、昨夜の宴会でも見ていない。

銀時は露骨に顔を引きつらせ、落ち着かない様子で視線を泳がせた。

「これはその…アレだ、歩狩汗だ。」

「一升瓶に入った歩狩汗なんざ見たことねェな、俺にも一杯分けてもらおうか。」

「高杉は飲まないほうがいいだろ、酔うとますます愛想がなくなるって遊廓の皐月太夫が言ってたぞ?」

「まだその話を根に持ってんのか。」

「根に持ってなんかねーっつの!つーかテメェは俺が買ってやったヤクルトでも飲んでろ!」

「ヤクルトを奢ってやったのは俺だ、寝言は寝て言え。」

一度言い争いを始めれば止まらないとわかっているのに、顔を突き合わせる度揉め事が絶えず、無駄な労力を費やす羽目になる。

だから腐れ縁は嫌いだ。

かといって掴んだ手を今更離すわけにもいかず、銀時は俺を引きずるようにして本堂の脇にある縁側へと近づいていく。

今夜二度目の衝撃は、そのとき頭上から降ってきた。

ざば、と勢いよく冷たいものを頭から被った俺と銀時は、反射的に屋根を見上げる。

「アッハッハッハ!二人共、酔いは醒めちょるか?」

「…今醒めた」

俺と銀時の返事が重なったのが癪に障るが、そんなことを言う暇もなく、坂本は好き勝手に話を続けてしまう。

「おんしらは本当に仲がええのう!流石同胞の出身!」

「辰馬!テメェ、どーしてくれるんだこの格好…ずぶ濡れじゃねーか!」

喚く銀時を全く気にせず笑い倒す坂本は、桶をぶらぶらとさせながら地面へと飛び降りた。

「頭を冷やしてやろうと思っての、ささやかなプレゼントじゃき。」

「ささやかなら霧吹きかける位だろ、普通…頭ん中までくるくるパーマかよ。」

「それは銀時、お前のほうだ。」

「誰が天パだって?」

「こんなに喧嘩ばかりしているようでは他の仲間に示しがつかないだろう。白夜叉に鬼兵隊総督が、聞いて呆れる。」

本堂から現れた桂は盃を四つほど手にしている。

どうやら連中は、これから宴を始めるらしい。

最初に地面へと胡座をかいて座り込んだのは坂本だ。

銀時からあっさりと一升瓶を奪い取り、桂が持っていた盃へと慣れた手つきで酒を注ぐ。

なみなみと注がれたそれは、今宵の月を映し出すにはあまりに小さい。

「ほいじゃ、飲み直すとするかの。今夜は金時の奢りじゃき。」

「俺は銀時だって何回言えばわかるんだ、脳味噌天然パーマ。金だと色々マズいだろ…」

「そういうことだ。高杉、お前も遠慮するな。銀時の奢りだなんて、明日は嵐どころか命日になりかねない。」

「よーしわかった。ヅラ、テメェは飲む資格なし!」

「なっ…ふざけるな銀時!大体明日早朝から兵を出すのはお前だろう、こんなに深酒してる暇があるのか?」

「酒を飲むは時間の無駄、飲まぬは人生の無駄と言うじゃろ。そのへんにして…」

「オイ、」

俺の一言は、三人の話を止めるには充分な代物だったらしい。

酒には相変わらず今夜の月も星も浮かんでいないが、夜空を見上げれば月の満ち欠けで今日が何日なのか、容易く察せた。

「…わざとか。」

「は?」

三文芝居をする銀時は一見無表情を決め込んでいるが、目線はちらちらと俺の顔を窺っている。

全くもって、安っぽい演技をする男だ。



『いつかあなたたちと飲み交わせる日が来るのを楽しみにしてますよ。』



ふいに先生の言葉を思い出す。

あの人がいなくても、俺はこうして酒を飲む。

昨日の思い出話と、明日を共にする腐れ縁が酒の肴だ。

「何突っ立ってんだ高杉、早く座れっての。ヤクルトないからってふてくされんなよ?」

「言ってろ。」

銀時から盃を奪い取った俺は、その場に座り胡座をかいた。

天に向かって差し出した盃には、月も星も映りはしない。

それでも、俺達の存在証明くらいにはなるはずだ。

「協調性も愛想もクソもない、格好つけの鬼兵隊総督に」

「乾杯!」

「…銀時テメェ、」

交わった四つの盃が、それぞれの身体へと酒を流し込む。

今日しかない人生を生き抜くために、必要なもの。

たとえいつか散り散りになろうとも、この夜だけは永遠だ。







温い夜風は、やがて来る朝を連れてこようとしている。

そう遠くない今日をこの喉に焼きつけるため、俺は清き一杯を潔く飲み干した。






   
Happy Birthday to Idealist!!

   


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