【雨先案内人】 君が雨で濡れないよう、君が一目でわかるよう。 無人のフロアは昼間よりずっと広く感じられるのに、不思議と孤独を覚えない。 パソコンの液晶画面から伝わる熱は、顔をむずかゆくさせた。 一面硝子で作られた窓は景色を映さず、俺一人を空へ置き去りにする。 既に消灯されているせいで、デスクのライトとパソコンの画面から放たれる光だけが道標のように俺を急かした。 指先は小刻みにキーボードを叩き、視線は液晶画面と書類の間を絶え間なく行き来する。 腕時計は終電に間に合う時刻を指していた。 どんなに遅く帰宅しようが、明日も早い。 最後の一行を打ち終えた俺は、パソコンの電源を落として資料を素早く片付ける。 デスクの上にはコーヒーの空き缶と栄養ドリンクの瓶が一本ずつ転がっていた。 二本共フロアの共同ゴミ箱に捨てて帰ろうと考えつつ、出しっぱなしの財布を鞄に突っ込めば帰り支度は完了だ。 去年のボーナスで買った二つ折りの財布は、一度だけ休憩所のベンチに置き忘れてしまったことがある。 幸い財布は運良く拾われ俺の手元に戻ってきたので、それからは必ず鞄の中にしまうよう習慣づけていた。 財布を拾った挙げ句、俺の席まで届けに来てくれたのは、同期の一人である女社員だ。 目立つ容姿でもなく良くも悪くも噂が立たない、ごく平凡な彼女の習慣を目撃したのはその直後。 彼女は雨でも傘を差さない。 雨の帰り道はいつも傘を差さないまま走って帰る、残業の合間に見下ろした窓からそんな姿を見かけてからしばらく経つ。 傘を忘れたのか、雨を嫌っているのか、単に早く帰りたいだけなのか。 理由はわからないが、生き急いでいるような姿を眺める度に、自然と眉を潜めてしまう。 天気に合わせて傘を持つ、それだってある種の身だしなみだ。 特に梅雨となれば毎日きちんと折りたたみ傘を持ち歩いている俺にとって、彼女の行動は理解し難いものだった。 フロアを後にして、エレベーターに乗り込んだところで、湿気を帯びた空気が顔にまとわりついてくる。 今日は梅雨の合間の晴天だと天気予報が騒ぎ立てたため、傘はアパートのベランダに干したままだ。 通行人も見当たらないので深く考えなかったが、雨が降っているなら折りたたみ傘の世話になるしかない。 ひっそりと覚悟を決めると、エレベーターは俺の心を揺さぶるかの如く唐突に停止する。 無遠慮に開かれた扉から乗り込んできたのは、傘を嫌う同期の社員だった。 「お疲れ様。」 「…ああ、」 彼女から挨拶されたものの、互いにそれきり黙ってしまう。 企画書と報告書に使う言葉ならすらすらと打ち込めるのに、挨拶を声にするのが難しいのは何故なのか。 二人だけの狭い空間なのに、どういうわけか息苦しい。 無性に喉が渇き、降下中の数秒がやけに長く感じられる。 やがて俺が言葉を見つけるよりも早く、一階に到着しエレベーターの扉が開いた。 結局財布を拾ってもらった礼すらきちんと言えないまま、鞄の中をまさぐってみる。 しかし、いくら探しても折りたたみ傘は見つからない。 確か昨日も折りたたみ傘を使って、そして。 「…ベランダに干したままか。」 誰に問いかけるでもなく、昨日の記憶を呼び覚ませばすぐに納得がいく。 折りたたみ傘はアパートのベランダに干したままで、鞄の中に入れるのを忘れてしまったのだ。 明日やっても問題ない仕事を今日のうちに終わらせてしまおうなんて考えたのが仇となったのか。 失敗したと嘆こうにも、生憎話しかける相手は彼女しかいない。 そして彼女は、俺より先に雨の中を走り出していた。 グレーのスーツは瞬く間に濡れ、こんな暗い世界でもよりいっそう濃い闇の色へと変化していく。 「…っ、おい」 決して大きくもない俺の声は雨の音に混じってすぐに濁り、彼女まで届かない。 彼女の後ろ姿はすぐに消え、俺はただ呆然とその場に立ち尽くしていた。 せめて俺が傘を持っていれば、彼女は濡れずに済んだのか。 男物の折りたたみ傘でも、さらさらと靡く髪くらいは雨粒から守れるはずだ。 だが、彼女は他人から傘を借りる性格でもないだろう。 なかなか甘えた部分を見せない同期だと、女たらしの坂本が飲み会で話していたのを思い出す。 同期の噂話に詳しい高杉も、彼女の交友関係はよくわからないと言っていた。 俺だって、さほど彼女と関わりがあるわけでもない。 財布を拾ってもらったとき、礼として食事に誘おうかとしたが、そんな大袈裟なことはしていないと一度断られてしまった経緯もある。 あとは社内ですれ違うときに挨拶をする程度だ。 目で追ってはいるものの、俺は彼女のことなんて何も知らない。 唯一わかっているのが傘を嫌っていることだなんて、滑稽にも程がある。 こんなときどうしたらいいのか、既に疲弊しきった頭はうまく働かない。 ただ、足は自然と前に出た。 日頃あれほど重く感じられる革靴が今はこんなにも軽く、新たな一歩を踏み出してしまう。 スーツで走る不格好さも恐れずに走ろうとすると、向かい側から人影が現れた。 片手でビニール傘を差し、もう片方の手で鞄を重そうに持つのは、先程走っていってしまった彼女だ。 迷いなく小走りで駆け寄ってくると、華奢な腕はしっかりと伸ばされ、俺の頭は彼女と同じ傘の中に収まった。 「…桂」 紫陽花の葉から雨水が滴り落ちるときと一緒の、世界に形を残さない響きで、彼女はそっと俺を呼ぶ。 「…どうしたんだ?」 「これ使って、角のコンビニで買ってきたから。」 新品のビニール傘を差し出した彼女の手はどこか頼りなさげに見える。 何と返事をすればいいかもわからず、ただビニール傘を受け取った俺は、慌てて再び鞄を漁った。 「なら代金を…」 「いいよ、今日はプレゼント。」 彼女は特別冷たくもなく、かといって甘ったるい雰囲気を生むでもなく、淡々とそう呟く。 今日だけはという言葉が妙に引っかかった俺は、数秒首を傾げた後で小さく息を吐いた。 どうやら俺は、そういう日を忘れてしまうほど大人になっていたらしい。 「知ってたのか」 「財布を届けるときに免許証を見たから。梅雨明け予報の一ヶ月前って、名前と同じくらい覚えやすかった。」 俺に背を向けて歩き出す彼女は、いつものように走らない。 そんな彼女を追いかけるように、俺も再び一歩踏み出す。 彼女の歩幅に合わせて歩けば、傘は二人の頭を雨から守った。 「今日は走って帰らないのか?」 「見てたの?」 「ああ、いつもな。」 「…今日は歩いて帰るよ、傘あるし。」 彼女の声色が僅かにうわずって聞こえたのは気のせいだろうか。 雨音は全てを包み、俺達を覆っては流れていく。 妙な色の曇天に足元を照らされ、駅までの道のりは薄明るく浮き上がっていた。 湿気でワイシャツはべたついているし、髪だって夜風が吹いてももつれるだけで、明日の天気も思いやられる。 夜明けなんて当分先なのに、なぜか心は晴れやかだった。 「傘は嫌いなのか。」 「邪魔じゃない?」 「近くにあるものは邪魔になりがちなだけだ、すぐに慣れる。」 「そう?…変なの。」 「だろうな。」 隣を歩く彼女が苦笑したとき、俺の週末の予定は決まった。 梅雨が始まったばかりの今、彼女に似合うとびきり素敵な傘を買いに行く。 そんな週末の過ごし方も悪くないと思いながら、俺は彼女に土日の予定を尋ねてみた。 Fin Happy Birthday to Revolutionist!! |