【枕元のプレリュード】 闇の底で、命の音を耳にする。 寂寥を恐れず、孤独を愛でて。 そこに辿り着くのは、大抵日付が変わる頃だった。 スーツをきっちりと着こなし、隙なく任務をこなした一日の終わりが、この場所に用意されている。 薄暗い玄関で照明を灯すと、雑然とした室内が生活臭剥き出しの状態でぼんやりと映し出された。 脱衣所に脱ぎ捨てたままのワイシャツと靴下、めくれかかったベッドのシーツ。 無造作に並べられた空のペットボトル、シンクに置かれたマグカップや食器。 小さなテーブルの上にあるのは、吸い殻がこれでもかと積まれてしまった灰皿だ。 どれも必要不可欠な日用品とはいえ、俺一人しかここにいないのだと改めて思い知らされる度に溜め息をついてしまう。 繰り返されるのは、人員不足による激務や職場とワンルームを行き来するだけの単調な一日。 目まぐるしい日々は余計な感傷に浸る暇も与えてくれないが、忙殺寸前の現状すら苦にならない俺も大概だろう。 職業柄不規則な生活を強いられる覚悟はしていたが、実際は想像以上だと気づいたときには既に手遅れだった。 警護課もといSPの主な仕事は、その名の通り各人の身辺警護だ。 国会に議席を有する各政党の代表者や各国から来日した要人、法律で規定された警護対象者と行動を共にする。 ただでなくても身体を張り神経をすり減らす業務である上に、そういう人間はとにかく休みを取りたがらない。 早朝から深夜まで周囲に気を配りながら働き、どれくらいの歳月が過ぎたのか。 慌ただしい毎日の中で、大切だと思える相手を見つけた。 二人で過ごす束の間の余暇を楽しみにするようになった。 そんな心休まる日々は、あまりにも呆気なく終わりを迎える。 女SPであるアイツは、半年間留学するためいつのまにか日本を発っていた。 数日間入院し、重傷ではないものの動きが取れずにいた当時の俺に何も告げないまま。 「…溜まってんな。」 上着を脱ぎ捨て煙草に火をつけ、ネクタイを緩めながら灰皿へと手を伸ばす。 少し動かせばこぼれてしまいそうな吸い殻を慎重にゴミ箱へ捨てれば、心は僅かに軽くなった。 今夜も帰宅後ベッドに入るまでの短い時間を一人で過ごす。 アイツとは元々頻繁に会っていたわけでもない。 たまたま職場が同じなので顔を見る日もあったが、シフトが合わなければすれ違いもせず、電話やメールの類も殆どしなかった。 留学の話も知っていたが、出発前に一度は挨拶に来るだろうと心のどこかで過信していた俺を天はとうとう見放したらしい。 アイツは仕事の合間に荷造りを済ませ、俺に顔を見せることもなく、あっさりとアメリカへ行ってしまった。 その後のアイツについて、上司である近藤さんは時々話を持ちかけてくる。 順風満帆とまでは言えないが、向こうでの勉強や訓練に弱音を上げることもなく、半年後には帰国する予定らしい。 半年なんて、多忙な俺にとってはあっという間だ。 問題なんて何もない。 俺の予想通り、駆け抜けるように時は経ち、女SPが日本に戻る季節がやってきた。 だが、アイツからの連絡はない。 向こうで使われている携帯端末の番号やメールアドレスは近藤さんから聞いたが、連絡していいのかすらわからず今に至る。 何か約束を交わしたわけでもないのに、一体今更どうしたらいいのか。 考えても答えは出ずに春が終わり、あと一ヶ月もすれば梅雨を迎えるだろうという頃だった。 世間は連休に突入し、どこを見ても人で溢れているが、政治家や要人に連休はない。 当然SP達は休みなく働き、曜日の感覚もなくなってきたある日、ようやく日付が変わる前に帰宅できた。 押し寄せる疲労感に身を任せるため、煙草を立て続けに二本吸い、ワイシャツも脱がずにベッドへ転がり込む。 「…疲れた。」 独り言とはいえ、いざ唇を動かすと身体の重さは本物になる。 音も立てずに目を閉じれば、意識はすぐさま遠いところへと持っていかれた。 どれくらい眠ったのだろうか。 ふと、顔の辺りに暖かみを感じて目を開ける。 暗いそこに何があるのかまでは確認できないが、顎がさらさらとした髪や旋毛に触れてこそばゆい。 人のベッドに入り込むなんて泥棒にしては随分図々しいと思いつつ、鼻についた見知らぬ匂いに内心首を傾げた。 おそらく女子供あたりが好む洗剤の匂いだろうが、この部屋にそんな人間を連れ込んだ覚えはない。 生憎俺は暇でもなければ、好いてもいない女と織り成す色事にさほど興味を持てる男でもなかった。 やがて暗がりに目が慣れてきたのか、人影が浮かび上がる。 それは俺にくるまるようにして小さな寝息を立てていた。 ワイシャツの襟がやけに白くぼやけて見える。 頬を掠めた手は覚えのある輪郭を想像させたが、思いついた人物がここにいるなんて有り得ない。 妙に現実味を帯びているが、ただの夢だ。 それならどこで目覚めるのだろうかと内心訝しがりつつ、密やかに呼びかけてみる。 「…オイ。」 「ん、」 寝ぼけ半分と言った艶のない声は、やはり俺が考えていたものと同じだった。 手探りで枕元に老いてある携帯端末を見つけ、ライトをつける。 照らし出されたその顔は、半年ぶりに見るものなのに何も変わっていない気がした。 「オマエどうして、」 「鍵、開いてましたよ。」 「違うだろ…」 「明日は土方さん休みだって、近藤さんから聞きました。」 「そうじゃない、」 ソイツはベッドの中でもぞもぞと動いてから、眠たげな目をして起き上がる。 ベッドの上で正座をして俺を見下ろしたコイツからは、半年前とは違う、外国特有の柔軟剤の香りがした。 「どうして帰ってきた?」 「無事に半年経ちましたから。」 素っ気なく言い切ったソイツは、軽く頭を下げてみせる。 コイツはいつもそうだ。 罪の意識がなくても俺が咎めると形だけ謝る癖を持ち、緊迫した雰囲気を嫌ってはへらへら笑い、場の空気を変えてしまう。 その一方で、ここぞというときは別人のように真剣な顔をして、誰よりも躊躇いなく身体を張る。 口では文句を言いつつ、職務を全うしたいと態度で示す女SP。 俺にとって、どうしようもなく特別な。 「シャンパンは買ってきましたから、大切な人の大切な日くらい祝わせてくださいね。」 「…あ?」 「今日が何日なのか、忘れてませんか?」 俺の携帯端末の液晶を指差し、コイツは屈託なくはにかんだ。 俺が次の言葉を探しているうちに、再びベッドの中へと潜り込んでくる。 馴れ馴れしいのに憎めない、そんな些細な仕草ですら懐かしくて鼻先がむず痒くなった。 「どこよりも先に、ここに帰って来ちゃいました。」 祝いの言葉でも何でもない言葉を、コイツが俺の隣で口にする。 その特別さに気づいてしまった。 「起きたらプレゼントも買いに行きますから、何がいいか決めておいて…」 「もう貰っちまった。」 「え?」 「…いや、何でもない。」 その温もりを味わおうと、小さな唇を柔らかく食んでみる。 身体に隠した熱を貪りながら、乾いた孤独を満たすために。 全身で捕まえたコイツの暖かみと呼吸は、簡単に微睡みを引き寄せる。 この夜が明けたとき、俺達はどんな顔をするのだろうか。 二人なら、朝焼けに照らされるのも悪くない。 そんな甘ったるい余韻に浸りつつ、俺は腕の中にある細い身体を抱きしめた。 Fin Happy Birthday to Mayonner!! |