special gift

□坂本辰馬〜クールビズ篇〜
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熱を以て情を制す、これぞ夏の方程式。










学校近くのコンビニを出れば、あまりの暑さに背中は一瞬で汗ばんだ。

湿気を含んだ風が、ワイシャツの中に重苦しく入り込んでくる。

薄暗い空を見上げれば、分厚い雲が急に辺りを包み始め、五月蠅かった蝉の鳴き声はぴたりと止んだ。

「間に合うかの?」

不穏な予感はすぐに現実となり、大粒の水滴が鼻先にぽつりぽつりと落ちてくる。

あと数分もしないうちに、雨は本降りになるだろう。

夏を加速させる天気の到来だ。

「走るかえ、」

誰に言うでもなく、わし自身を励ますように呟いてから走り出す。

アイスが二つ入ったコンビニの袋は、駆ける速さでかさかさと軽快な音を立てた。

眼鏡のレンズはすぐに曇り、雨粒は視界を歪めてしまう。

雨が皮膚を濡らせばこの蒸し暑さもいくらかマシになるかと思ったが、一向に気温が下がった気はしない。

校門を潜り、夏休みで人気のない校舎の隅へと辿り着く頃には、頭から爪先までしっかりと濡れていた。

数学準備室の脇で靴を脱ぎ、こっそりと上がり込む。

部屋の中は電気もついていない。

「おらんか…まあ、そのほうが」

ここまで濡れてしまったお説教も聞かずに済んで都合がいい、そう言いかけたときだった。

「いますよ。」

ぼそっと言い放たれた言葉に、愛想は欠片ほどもない。

おののきながら振り向くと、そこには上市先生が立っていた。

数学講師である彼女は、睨むようにしてわしを見上げている。

「上市先生」

「また卑猥な本ですか?」

彼女はわしが手にしていたコンビニ袋を一瞥して、容赦なく吐き捨てた。

「これは違う、もっといいものぜよ。」

コンビニ袋を差し出してみると、上市先生は黙ってそれを受け取り、中身を確認する。

「…毎日アイスですね。」

「夏はこれに限る。」

ワイシャツにパンツスーツ姿の上市先生は、椅子の上に置かれていたタオルを手にして、背伸びをしながらわしの頭へと乗せた。

「風邪引いたらどうするんですか。」

「そうでもせんと、休みも取れん。」

何を言っても無駄だと思ったのか、彼女はコンビニ袋を机の上に置いて俺の頭へと手を伸ばす。

タオルを掴みわしゃわしゃとわしの頭を拭く姿勢は、少し斜めがかっていた。

そんな態勢でよく前のめりに転ばないものだと内心感心しつつ、わしは頭をほんの少し前に下げる。

「濡れすぎです。」

「問題ない、おんしが拭いてくれるじゃろ。」

そう言った途端、彼女の手はわしの頭から離れてしまった。

それが嫌悪から成された仕草ではなく、照れ隠しなのだと気づいたのはいつだろうか。

ここでこうして悪態をつくのは、彼女なりにこの空間やわしに心を許している証拠だ。

だからこそ、わしは人見知りの彼女とこんなやりとりを楽しんでいる。

湿った靴下を脱ぎ捨て、頭にタオルを乗せたままワイシャツのボタンを外そうとしていると、少し大きめのタオルが投げつけられた。

「準備がええの。」

「夕立対策、夏の必需品ですから。」

言い訳とも本心とも取れる上市先生の言葉を聞きながら、ネクタイをほどきワイシャツを脱いで上半身を露わにした。

こんなことが日常茶飯事になっているせいか、上市先生は驚きもしない。

彼女は大人で、物事の分別も十分につく。

だからこそ安心して好いていられる。

曇った眼鏡に輪郭のぼやけた部屋。

わしの視界は、色彩を残したまま濁っていた。

遠くでは雷が光っていたが、音は全く聞こえない。

「…雷ですか。」

上市先生は窓の外をちらりと眺めて、言葉を漏らす。

「見えん。」

「ああ、眼鏡も曇ってるんですね…。」

彼女は両手をわしの耳元に回し、ゆっくりと眼鏡に手をかけた。

眼鏡を外すときの慎重さは口調と裏腹で、わかりやすく丁寧だ。

そういうところも嫌いではないと言ったなら、上市先生はどんな顔をするだろうか。





眼鏡を取った瞬間、わしはタオルを手放して上市先生の耳元へと唇を寄せる。

床に落ちたタオルは、拾い上げられることもない。

眼鏡のせいで両手が塞がったままの彼女の目が見開いたのを確認しながら、わしの唇は柔らかく言葉を紡ぐ。

「おんしに眼鏡を外してもらえるなら、夕立も悪くないの。」

雨に打たれたなら、耳元に唇を近づけることができたり、濡れた身体が冷えないようにと触れる口実すらできてしまう。

例えばこうして、熱を交わらせるために。







吐息が重なる音を、雨は容赦なくかき消していく。

二人分の体温は、身体にまとわりつく雨水さえ汗に変えてしまう。

火照った思いの行き着く先。

その片隅でアイスが溶け始めたのか、コンビニ袋の中身が小さな音を立ててわしを咎めた。










Fin


   
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