clapping

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ID。



本人証明。

その一部。

本人が、存在することになった日。










「あー、眠ィ…」

我が家と言えば聞こえはいいが、所詮独身オトコの部屋。

職場近くにある、汚く散らかった1LDKのアパートに向かって歩く。

足取りは、重いまま。

吐く息が白くなる季節までは、もう少し時間がある。

それまではこの眼鏡も曇らずに使える。

まだ、良くも悪くも何でも見える時期。





教師なんて仕事は大半が慈善事業みたいなモンで、サービス残業は当たり前。

休日を潰して部活動の引率をしても、手当てはその辺のバイト以下。

生徒に手を出す体力もなければ、リスクを冒す気力もない。

今日だって日曜なのに、保護者宛の文書作成をしに人がいなくなる夕方から学校へ行ってきたところで。

あと三十分もしないうちに日付が変わる、そんな時間に入ったのはいつものコンビニだった。

明日は三連休の最終日。

俺はビールとチューハイの缶を手当たり次第カゴに入れる。

一日中寝ているために今日はひたすら飲んでやろうと思えば、妙に目が冴えてきて。

つまみにプリンとチョコレートを選び、コンビニ袋のかさかさとさせながら、満月の下を歩く。

くたびれたスーツも、ワイシャツの腕をまくった状態だと少し肌寒い。

制服の衣替えを見ると、ああ秋だなと思うくらいで、それ以外に季節の変わり目を意識したこともなくて。

ただ、今夜耳を澄ましてみれば、夜の虫の鳴き声は確実に秋のそれだった。



秋が、来る。







アパートの二階の一番端が俺の聖域。

ネクタイを緩めながら鍵を開ける。

が、ドアノブは開かない。

もう一度鍵を差し込めば、容易く開いたドアを前に、一つの仮定が生まれる。

いつもポストの中にある合い鍵を使って、誰かが部屋にいる。

そんなことができるのは、鍵の在処を知っている人間だけだ。

心当たりは、たった一人。

同僚であり俺より多忙な、三連休なんてボランティア全出勤してそうなアイツしかいない。





いつも二人で居酒屋で飲んで、俺の家でも朝まで飲んだりして、いいオトナなのに男女の関係にはならなくて。

学校ではお互いただの同僚の顔をして、何事もなかったかのように振る舞って。

普段は真面目で、たまに屈託ない顔して笑うヤツ。





ドアを閉め、鍵をかける。

部屋の中は暗い。

電気を点ける気にもならず、携帯電話の明かりを頼りにカーテンだけ開けてみると、満月の光がゆっくりと汚い部屋を照らした。

カップラーメンは食べたまま残り汁も捨てずに放置し、エロ本はふせたまま、洗濯機の脇には一週間分の洗濯物が見るからに匂いそうな勢いで山積みになっていて。

夕方部屋を出たときとは、何も変わっていないように見えた。



ベッドの上で、スーツ姿のコイツが寝息を立てていること以外は。



俺はコンビニ袋を机の上に置いてから、ソイツに声をかける。

「お客さん、閉店だよ−。」

ソイツは条件反射でびくっと身体を痙攣させ、寝起きの締まりのない顔で俺を見た。

「…坂田先生、」

「坂田でいーから。その格好、どうせ仕事してたんだろ。終電ならまだ、」

「さよならを言いに来た。」

「…は?」

起き上がりながらソイツは頭を振って、さっきよりはしっかりした目で俺を見据える。

さよなら言われる付き合いなんざ、した覚えはない。

付き合っていないし、手も出していないし。

さっぱりわからないとばかりに俺が顔を引きつらせていると、

「さよなら、坂田先生。」

華奢な手首にはめた、手入れされた腕時計をちらっと見た後、

「初めまして、坂田先生。」

ほんの少しだけ笑みを浮かべて呟かれて。

「…寝ぼけてるのか?」



「日付変わったでしょ。だから、初めまして。歳とった坂田先生。」





思い出した、

「…一応気にしてるんだから、あんまり歳って言うなって」

今日は俺の。





「冷蔵庫にでっかいケーキと、おいしいシャンパン入れといた。奮発したから、朝まで飲もう。」

明日は久しぶりに部活ないんだ、一日寝てられるとソイツは笑った。

冷蔵庫を開けてみれば、でかくてリボンのついた白い箱の中には、とても二人では食べ切れなさそうな苺のショートケーキが鎮座している。

名前が書かれたガキっぽいプレートや、ロウソクが見当たらないあたりがコイツらしい。

シャンパンも、名前をよく聞く小洒落たものの一番大きなサイズで。



どちらも、この汚い部屋には似合わない。

ただ、コイツが朝まで飲もうと俺を待っていた。

それだけで、歳をとるのも、存在証明を繰り返すのも悪くないかもしれないと思う。





俺は冷蔵庫を閉め、ネクタイをほどきながらソイツに近寄る。



「悪くねぇな。」

「何が?」

「大人ってのも。」







満月の光は相変わらず部屋を照らし出し、コイツの肌を白く見せる。

まだベッドに座り込んだままのソイツの横に手をつき距離を縮めれば、スプリングが恥ずかしげに安っぽく軋む音がした。










Fin



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