【小さな嫉妬】 平凡な日常の非凡な思いはこの手の中に。 「今夜も寒いなぁ…。」 ぼんやりと夜空を眺める暇もなく、駅の改札から流れてくる人波で時間を推し量る午後八時。 俺は使い込んだ黒のエプロンを身につけ、店先で商品の在庫管理に励んでいた。 吐き出した息は白く、指先は悴んでいたが、客足が遠のくこの時間帯は明日の準備をするのに丁度いい。 ほぼ一日外気にさらされていた身体はすっかり冷え切っていたが、なけなしの気力と体力を振り絞って手を動かす。 小さな花屋の地味な店員、それが俺だ。 花が好きだから。 そんな単純な理由を口にしていられたのは最初の何日かだけで、働き出した俺はすぐにこの仕事を厳しさを思い知った。 決して甘く見ていたわけではないが、女性が多い仕事といえど肉体労働が一日の大半を占め、花に触れる時間はごく僅かだ。 競りに行くときは朝四時起きで、俺の身長くらいの植木鉢を持って階段を登るような配達だってこなす。 水仕事はあっという間に手荒れを引き起こし、冬になればあかぎれが痛み、すぐに働く人間の指になった。 給料だって特別高いわけではなく、むしろ拘束時間を考えればどう考えても足りないような金額だ。 おまけにどれだけ綺麗なアレンジを施そうが、気に留めてくれる客はまずいない。 仕事は好きなことをしてお金をもらうのではなく、嫌なことに耐えた我慢料なんだと自虐的に悟ってからどれくらい経つだろう。 それでも俺は、花が好きだ。 花を見た誰かの顔がふわりとほころぶ、その一瞬のために、俺はまだこの仕事を辞められずにいた。 やがて閉店時間となり、俺は店仕舞いの支度を始める。 この時間は滅多に混まないので、一人で切り盛りするのもさほど大変ではない。 平日の夜、今頃になって現れる客が買うのは、せいぜい自宅用の小さなブーケくらいだ。 毎日あれこれ考えて作るそれは密かに自信作でもあったが、こうして売れ残りを目にすると流石に寂しくなってしまう。 花だって、命がある。 店先に飾られた花は物言わないが、持ち帰ってくれる人に手を差し伸べられるときを待っているはずだ。 そう思いながら、無意識のうちに溜め息をついたときだった。 「あの、まだお店開いてますか?」 「え?…ああ、すみません。大丈夫ですよ。」 片付けに夢中になっていたところ、ふいに背中から声をかけられた俺はしどろもどろの返事をしてしまう。 謝りながら振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。 仕事帰りなのだろう、コートとストールで防寒対策をきっちりとしている彼女の顔は見覚えがある。 「最近よく来てくれますよね。」 「週に一回くらいですけど…」 「それだけ通ってくれたら覚えます。」 呆気に取られたような顔をした彼女は最近常連になりつつあり、いつも閉店間際に小さなブーケか一輪挿し用の花を買っていた。 いわゆる顔馴染みだが、俺は彼女の名前すら知らないし、彼女も俺の名前なんてわからないだろう。 けれど、彼女の顔を見ると無条件でほっとした。 会計をしているときや、花を包んでいるときに交わす他愛のない話に何度癒されたかわからない。 それに彼女が花を選ぶときに真剣な顔をするのが微笑ましくて、無意識のうちに手を止めて眺めてしまうこともあった。 彼女は今日も熱心な目をしているが、視線の先はいつもと違う。 「鉢植えですか…?」 「ええ、ちょっと。」 そう言ったきり、彼女は口を噤んでしまった。 普段なら、どんな花が長持ちしそうかなんて些細なことを聞いてきたりするのに、珍しいこともあるものだ。 あまり話しかけて邪魔をしても悪いと思い、俺は彼女からさりげなく目を逸らした。 どうやら彼女は小さなクロッカスの鉢植えに興味があるらしく、真剣さ故に唇を少々尖らせている。 「すみません、これください。」 やがて彼女はクロッカスの鉢植えを俺に差し出した。 蕾や葉の状態もよく、懸命に選んだ甲斐はあるようだ。 「鉢植えですね、ありがとうございます。」 「贈り物なんです。」 「かしこまりました、ラッピングもしておきます。」 彼女の目が生き生きとしているのを見て、俺は急にいたたまれなくなってしまった。 どんなに馬鹿げていたとしても、今は本気でこのクロッカスが羨ましいし、その理由もなんとなくわかっている。 一度気づいてしまえば後は簡単で、まだ形にはならない感情が胸の奥でじわじわと疼き出す。 「お待たせしました。」 ラッピングをしたクロッカスの鉢植えを見せると、彼女は目を細めて嬉しそうに笑った。 彼女が今日一日をどう過ごしたのかは知らないが、今こうして、その笑顔を間近に見ているのは俺だけだ。 小さな優越感を隠し、紙袋に鉢植えを入れようとすると、彼女は紙袋に入れなくていいですと慌て出す。 「でも、どうやって持って帰るんですか?」 「持って帰らないです。これは…その、山崎さんに渡そうと思って。」 彼女はもごもごと言いにくそうに付け足し、鉢植えを手にして俺へと突き出した。 「今日、誕生日ですよね?」 「…そうだけど何で、」 「誕生花がクロッカスだって聞いたときに調べました。」 「それに俺の名前、」 「レシートに書いてあります。」 下の名前は読めなかったですけど、と呟く彼女の耳が赤い。 凍てつくような空気か、それとも別の理由からか。 そんなことを考える余裕もないし、こんなときに何て言えばいいのかさえわからない。 「受け取ってくれますか?」 「勿論、…ありがとう。」 鉢植えを手にすると、彼女はやっぱり恥ずかしそうな顔をして俯いた。 今日が何の日だったかなんて本人もすっかり忘れていたのに、こうして祝ってくれる人がいる。 誕生日を祝うほど暇でもなく幸せでもない、そう思っていたのはどうやら俺一人だったらしい。 「お花屋さんにお花をプレゼントだなんて、気が利かないですよね…。」 「覚えてくれてたのが一番嬉しいし、俺、花好きだから。これも大切に育てる。だから、」 言いかけた言葉を飲み込んで、視線は照れ隠しにクロッカスへと合わせたまま。 「俺の名前も覚えてくれる?それと」 「私の名前は…」 重なった言葉が愛おしくて、鼻の頭の冷たさなんて気にならないほど可笑しくて。 幸せなんて、どこにでもあるものだ。 ありふれた一日の終わりに、店の片隅に、こんな俺でさえ。 その先の言葉は、どれだけ綺麗な花でも邪魔できない。 俺はささやかな喜びを噛みしめながら、彼女の話を聞き始めた。 Fin Happy Birthday to your inspection!! |