アゲハ蝶
□Goodbye Lullaby
3ページ/14ページ
ここにいる間、覚えたことの一つを頭の中で繰り返す。
好きなものは、どんなときでもひたすら大切にすること。
今の自分にできる限りの方法で。
真選組で過ごした時間。
やりたいことがいくつもある毎日。
全部をこなすには時間が足りないけど、順番に、一人でできることはやっておこうと思いながら机に向かった。
筆も硯も山崎さんに借りたもので、とても使いやすくて沢山使っていて。
お世辞にも字がうまいとは言えない自分に、山崎さんは筆の使い方や書き方のコツを丁寧に教えてくれた。
土方さんも教えてくれたことがある。
あれは、まだ夏の匂いがしていた暑い夜。
土方さんの部屋で、書類に捺印していく土方さんの隣に正座する。
小さな筆を手に取り、宛名書きをしようとすれば、筆使いがおかしいだろと指摘されて。
「オマエ、字も書けないのか。」
俯いて頷けば、土方さんは呆れながらも自分の後ろに回り込み、膝を立てて座った。
「筆、持ってみな。」
そもそも持ち方がおかしいだろと言って、土方さんは後ろから自分の筆を持つ手を取り、指使いを直してくれて。
「力抜いてろ。」
慌てて、かちこちに固まった腕の力を抜いてみる。
筆は柔らかく握ったまま。
土方さんは自分の筆を持つ手を握って、筆に墨をつけて練習用の半紙の上に筆を滑らせた。
さらさらと水が流れるみたいに、でもどこかに力強さを秘めた綺麗な書体が浮かび上がる。
土方さんの手も男のひとなのにどこか綺麗で、ごつごつしてるだけじゃなく温かい気がした。
一瞬で書き上がった「北條凛殿」の文字は、堂々としている。
「オマエもこれくらい書けるように練習しとけ。慣れだ、慣れ。」
愛想がないような物の言い方をするけど、よく気がついて、面倒を見てくれて。
最初の頃に比べたら、今は十分すぎるほど筆で文字を書くことにも慣れた。
(慣れていないのは、素直な気持ちを文字にすること。)
深呼吸して、目を閉じる。
自分がここに残していけるものは、そんなに多いわけじゃない。
だからこれは、綺麗に書いておきたかった。
たった一通の、最初で最後の手紙。
真選組の皆に宛てたものだけど、なるべく簡潔に、でも皆が納得いくような内容のものにしなきゃいけない。
自分の綺麗な部分だけを覚えていてもらうように。
そしてやがては、ごく自然に忘れてもらえるように。
書きたい言葉は決まっていたけど、綺麗な書体で書けるように何回か練習をしたあとで清書して。
「…これでいいかな。」
書きあがった手紙をまじまじと見つめる。
(きっと大丈夫だよ。)
…本当に?
(うん、皆優しいからね。)
墨が乾いてから便箋を折り畳み、封筒へと丁寧にしまう。
封筒はなぜか二つ買ってしまった。
集中して筆を持ち、一つは「真選組の皆さんへ」と書く。
失敗してしまったときのために二つ買ったのかと思ったけど、そうじゃないような気がする。
もっと別の意味を込めて。
(別の意味って?)
しゃら、とネックレスが小さく問いかけてくる。
それは多分、無意識のうちに。
ゆっくりと便箋を手に取る。
姿勢をもう一度正して、筆を取って。
つむじが一本の糸でぴんと貼り詰められているような感覚がする。
大切でかけがえのないあのひとに宛てて、気持ちを込めて一気に筆を動かす。
躊躇ったら、止まったら、きっと書けなくなってしまうから。
(泣かないで。)
―わかってる。
涙は出ないから。
まだ、泣けない。
便箋が乾くまでの間、ほんの少しだけ瞼を閉じる。
暗い世界に浮かび上がるのは、ここで体験した色んなこと。
何もできなかった自分に、次々に沢山のことを染み込ませてくれたひとたち。
全部の始まりを自分に与えてくれた、愛しいひと。
土方さん。