アゲハ蝶
□Goodbye Lullaby
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空気はどことなく乾いていて、夜風は身体の表面から芯のほうまで自分を冷たく侵食していく。
頬や耳は、真っ先にひんやりとした。
どんなに天気が悪くても、縁側から見る中庭は生命力があって好きだった。
いつか色んなものを見に、遠くまで行けたらいいのにと思う。
(いつか、また。)
「どのへんだろう…」
夜中、お風呂に入る前に隊服姿のまま中庭を歩く。
中庭には沢山木があって、おまけに暗いせいで金木犀はすぐには見つからなかった。
枝をかき分けて、香りを見つけようとする。
柔らかい花の香り。
見たことのない橙色の花を探して嗅覚に集中すれば、緑の乾いた香りが鼻についた。
同時に感じたのは、嗅ぎ慣れた煙草の匂い。
探していた香りとは違うけど、その微かな匂いに引き寄せられるように歩いていけば。
「凛?」
「やっぱり、土方さんですね。」
思わず笑顔を浮かべてしまったような気がして、恥ずかしくなり慌てて目をそらす。
暗い夜の闇の中に、二人分の隊服はさらに色濃くなって沈んでいけそうな重さに見えた。
土方さんの背中越しに見えるのは、大きめの木。
目を凝らせば、橙色の小さな何かが沢山ついていて。
煙草の匂いと花の香りが混ざりあう。
「…金木犀?」
「眺めに来たのか?」
土方さんは何か考え込むような顔をしながら、煙草を吸う。
「沖田さんが武州から帰ってきたときに、いい香りがして…。沖田さんの家には大きな金木犀の木があるって教えてもらいました。」
「…そうか。」
土方さんの表情が、どことなく変わったような気がした。
「花、小さいんですね…でも可愛い。土方さんも金木犀の香りは好きですか?」
枝に近づいて見てみれば、小さな花が沢山集まって、呼吸ごとその香りに染め上げられてしまいそうなほど。
甘い蜜にも似た、どこか寂しくなるような香り。
「…総悟の姉貴、ミツバは金木犀が好きだったからな。」
煙草の煙を吐き出しながら、土方さんは橙色の小さな花にそっと触れる。
その一言が、自分の奥底を静かに揺り動かした。
沖田さんのお姉さん。
ミツバさん。
土方さんの、好きなひと。
そう考えれば、胸のあたりがきゅっと痛む。
苦しくて逃げ出したい気持ちを土方さんに悟られないように、笑顔を作った。
(笑顔の作り方、覚えてるよね?)
―勿論。
まずは口元。
口角を上げ、声も少しだけ高い声にして。
目線は実際に見ているものより、僅かに焦点をずらして。
「そうなんですか…。なんとなくわかるような気がします。」
「何がだ?」
「色もほんのり暖かくて、香りもこんなに印象的で。忘れられなくなりますよ。」
そうだ、きっと忘れない。
自分が土方さんを忘れないって決めたのと同じくらい、土方さんもミツバさんを忘れることはないだろう。
亡くなったひとは、残されたひとの心の中でしか生きていけない。
そういうふうに、あのひとも言っていた。
(君を愛して苦しめた、そしてもうすぐ迎えに来るひと。)
「金木犀が羨ましいです。」
だめだ、
「…おい、」
今、何かを考えたら絶対にだめ、
「また来年ここで皆に会える。土方さんにも。」
何かを感じたら、もっとだめ。
寂しい苦しい悲しい怖い、
「凛、っ」
名前を呼ばれながら感じたのは、土方さんの体温と煙草の匂い。
自分の目元にほんの少しだけ、水分が溢れているような気配。
それを飲み込むように呼吸する。
土方さんが、自分を抱きしめてくれている。
忘れないと決めた、抱きしめられるこの感覚も今夜で最後。
土方さんは自分の頭を、胸の辺りに埋めさせてくれて。
それは、あのテロのときとよく似ていた。
あのときは、怖いけど不安じゃなかった。
土方さんと一緒なら何でも大丈夫だって思えて、安心して。
このひとの一番になれなくても、自分の中に生まれた感情は覚えておきたかった。
少し苦い煙草の匂いも、とくとくと動く心臓の音も、形に残るものなんて何一つないけれど。
金木犀みたいに、また来年会えるわけでもないけれど。
「凛…泣くな。」
その一言で、どこまでも強くなれるひとでありたい。
だから、せめて。
「…はい。」
(今だけは、甘えていたいんだ。)