黒河探偵事務所

□memory【前編】
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「ったく、酷ェな……マジで絞まってたぞ」



 ゲホ、と1つ咳払いし、喉元を押さえる佐川に苦笑する神崎と玲。
 一方、至って冷静に書類の端を整える黒河があっさりと言った。


「昼間っから不謹慎な事を口走ろうとしたお前が悪い。自業自得だろう?」


「クロ坊、ナイスやで!」
「同じく、ナイスです!」



 グッと親指を突き出す2人に、苦笑する。

 ところで、神崎はこんなところに居ていいのだろうか。

 仮に2人が師弟という関係であっても、今は黒河も立派な探偵だ。
 事務所も向かい合わせというのもあって、もはやライバルといえよう。



「仁さん」

「なんや?」

「事務所は……?」

「ああ、それやったら心配無用や」



 ゴソゴソとスラックスのポケットをあさり、取り出した1枚の紙切れ。
 わしゃ、と、折り畳んであるそれを開くと、貼り紙になった。そこに書いてある文字が……。




『本拠地は向かいの“黒河探偵事務所”です。ご用の方はソチラへGO! 所長 神崎仁』



 ニヤリと笑う神崎に、目を瞬かせる一同。



「ええやろー。これと同じのんがワシの事務所の入り口に貼ったんねん」



 これはスペアやで。と言いながらまたポケットをあさる神崎。
 また紙切れが1枚取り出され、開かれる。



『優秀な探偵が2人 優秀で美人な助手兼秘書 時々優秀刑事在住』



 "優秀"が赤字になっているソレを見、また目を瞬かせる。



「これ、クロ坊の事務所の入り口に貼ってええ?」

「え、流石にそれはオーバーかと……特に"優秀刑事"が」

「えー、事実やないのー」

「おいテメェ! そりゃどういう意味だ!!」

「はい、優秀優秀。スゴイねー」



 神崎に渡された貼り紙に視線を落とし、佐川を適当にあしらう。



「ひ、酷ェ……玲ー……」

「私はまだ佐川さんの実力は見てないけど、優秀だと思うよ。……たぶん」

「た……たぶんはいらねえよ……」



 隣に居た玲の膝になだれ込み、すがる佐川の頭を、子供をあやすようによしよしと撫でる玲。
 それを見た黒河が眉をピクリと動かし、むうと声を小さく上げる。
 その時、神崎が黒河の頬をつついた。



「な、なんです?」

「客や」



 いつもより声のトーンが低い。
 神崎が黒河を叱る時は、いつも声のトーンを落とす。
 きっと、早く気付けということなんだろう。

 急いで玄関の方へ目を向けると、そこには困ったような表情を浮かべた女性が立っていた。



「す、すいません! ホラ、玲ちゃんっ!」

「あっ、申し訳ありません! 依頼ですか?」

「ええ……ごめんなさいね。なんだかとても賑やかだったから……」

「いえいえ! どうぞ、コチラへ掛けてくださいっ」


















 テレビは消し、向かい合わせのソファに挟まれたテーブルには、紅茶の湯気が揺らめいている。


 黒河と神崎は依頼人の向かいのソファに。その横にはお盆を持った玲が立っていて、佐川は黒河のデスクに寄りかかり、コチラの話を黙って聞いている。



「先ほどは失礼……所長の黒河です」

「あ、はい」

「え……えーと、今回の依頼は……コチラの神崎に、でしょうか?」

「いえ……あの……」

「はい」

「……も、いいんです……」

「えっ?」



 その瞬間、女性の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ始めた。



「……っ、うッ……う」

「あのご気分でも……」



 依頼を伝える時、事情により涙する依頼人もいる。
 しかし、尋常ではないほどの涙を流す女性に、流石の黒河もうろたえた。



「あの……」

「……っ、どちらでもいいですっ……!」


「主人と、妹を止めてぇ――……っ!」





 
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