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□あざとさの残る受胎宣告
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気持ち悪い。
折原臨也は強烈な吐き気に襲われて、洗面所へと駆け出した。白い指が同色の大理石を掴んで、苦しそうに這った。無理やりに咳き込んで嘔吐を促すも、もとより少食の臨也は大した食事をとらずとも普通に過ごしていけるため、吐き出されたのは胃酸とも唾液ともとれぬ液体のみだった。薄い酸の臭いが鼻を掠めて、ようやく臨也は落ち着きを取り戻した。粘度もさして高くない液体が口の端に伝って顔を顰める。顔を冷水で洗った。


「貴方、大丈夫なの?」


冷めた声が聞こえたほうに顔を向けると、そこには臨也の秘書を務めている矢霧波江が立っていた。よく見ると彼女は手にタオルを持っていて、臨也が目を丸くしてタオルと波江の顔を交互に見比べていると、さっさと拭きなさいよ、とタオルを押し付けられた。高級品のタオルの質感を肌に感じながら、臨也が意地の悪い笑みを浮かべる。


「波江さんてば、俺の心配してくれたんだ? やっさしー」


「そう度々吐かれていたら心配したくもなるわよ。貴方の仕事溜まっているんだから」


溜め息混じりに吐かれた台詞に、臨也は苦笑いを返した。その顔もまだ青白いままだったので、波江は眉間に皺を寄せて臨也に背を向けた。


「休んでいなさい。そんな辛気臭い顔でいられたら迷惑だわ」


随分と棘のある言葉ではあったが、それが彼女なりの優しさである事は分かっていたので、波江に礼を言ってふらふらとした足取りで寝室に向かった。
近頃、頻繁に吐き気を催すようになった。食事をとることが酷く不愉快に思われ、他人が食事をとっている姿を観察することですらできなくなっていた。人間観察を趣味とする臨也にとって、人間のすべてを見ることができないのは不服だった。精神的にストレスを抱えていた訳でもないので、拒食症とも思えない。臨也は身長に対する標準体重を下回る痩せ型であったので、太る、という事とは無縁だった。臨也自身はあまりその体格を好ましく思っていなく、どちらかといえば筋肉の程よくついた男というに相応しい体に憧れていた。
体調が悪くなってから風呂上りの日課となっている体重測定でも、大して体重は減っていなかったので、臨也にはなおさら不可解に思えた。何にせよこのままでは仕事をする事すら出来ないので、新羅に吐き気止めをもらおうと電話をかけた。


『やあ、臨也かい?』


陽気な声が応じた。新羅に何の落ち度もないことは分かっていたが、それでもこの状態で聞けば腹が立つものだ、と思いながら臨也は手短に用件を告げた。簡単な約束を取り付け、電話を切る。約束の時刻は本日午後三時。時計に目をやると既に二時を回ったところだった。このまま事務所に居てもどうせ仕事は出来ないのだ。ならば早めに行くのが吉だろう。そう思った臨也はハンガーにかけてあったコートを取り腕に通した。
池袋、と電車のアナウンスが告げる。ぼんやり流れる景色を見つめていた臨也は、少し慌てて人を掻き分けホームに降りた。流れる人並みを観察する余裕すらなかった。臨也は足早に目的の場所へと向かう。その時だった。
轟音。叩きつけられた自動販売機が通常ではありえない跳ね方をした。ガラガラとコインを入れてもいないのに零れ出る缶を尻目に、二人の男が対峙する。


「何の用だい?」


口元を釣り上げナイフを突きつけてはみたものの、正直今の状態で静雄に敵うとは思えなかった。さっさと切り上げてしまおう。静雄の眼球めがけてナイフを投げる。静雄がナイフを振り払ったときにはもう既に臨也は十メートルほど遠くに逃げていた。このシーンでの十メートルは大きい。静雄は今何も持っていないのだ。近くには標識も無い。それを確認するためだけに背後に向けた臨也の瞳が一瞬静雄の視線と交差する。臨也は身体の正面の方向にある目的の場所に目を向けた。


「いらっしゃい」


新羅はいつも通り笑っていた。しかし目はしっかりと臨也の顔色の悪さや痩せ具合を認識しているようだった。診察室代わりのリビングに通される。セルティは依頼の為か出払っているようだった。革張りのソファに腰掛ける。状況を簡単に話すと、新羅は念のため採血をしよう、と言った。血を抜かれる感覚には慣れていない。肘の裏側に刺された注射針は精神をいやに圧迫する。結果は明日聞きにおいで、と言われたので今日は退散することにした。革張りのソファから立ち上がった瞬間視界が揺れる。妙に焦った新羅の声が耳に入ったような気がした。

臨也の視界が明るくなる。薄ぼんやりした意識が徐々に呼び覚まされた。白い天井は、臨也の記憶が確かなら新羅のマンションのものだ。そこで臨也は自分が新羅のマンションで意識を失ったことを思い出した。自分はどうやらソファに寝かされているらしい。ゆっくりと床に足を付けて立ち上がる。くら、と頭が揺れて、宙に浮いているような気分になる。薄手のカーテンから透ける明るさが、早い時間なのだと告げていた。そう長く気を失っていたわけではないのだろう。


「起きたのかい?」


後ろから声をかけられる。緩慢な動作で振り返ると、当然ではあるが新羅がいた。臨也が訝しげに眉をひそめる。もう何年も付き合いがあったので、違和感にはすぐに気付いたのだ。いつもの笑みが浮かんでいない。


「臨也、ちょっといいかい」


眼鏡に蛍光灯の光が反射して表情が読み取れないのが、いっそう不気味だった。革張りのソファに腰掛けると、目の前のテーブルに無かったはずの電子時計があった。日付も搭載されているものらしく、ふと目をやると記憶より日付は一日多く進んでいた。丸一日寝てたのかもしれない。頭ではおかしいと感じたが、感覚的に納得するほかなかった。


「落ち着いて聞いてほしい」


新羅が膝の上に肘を乗せ、祈りのように手を組む。頭を垂れていた。臨也は片目を細めると、煩わしげに脚を組んだ。


「君は妊娠している」


嘘を言っているように見えない事に、尚更苛立った。


「心当たりは、あるかい?」


俺は男だから妊娠しない、とか常識を語る気にはもうなれなかった。通常ではあり得ない筈の心当たりというものがあるのだから仕方が無い。男に抱かれた。それは純然たる事実だった。


「…女性と違うからよくは分からないけど、中絶するつもりなら早い内がいい。相手とよく相談して決めるんだよ」


沈黙を肯定と受け取ったらしい新羅が勝手な結論を出した。相談を出来ない相手ならどうすればいい。頭が鈍く痛んだ。あの男ではない。そう考えるには窮地に追い込まれすぎた。心当たりは一つしかない。天敵に抱かれた、あの夜の事しか。
回想することなど何も無い。ただ、酷く酔っていた静雄に抱かれた、それだけの話だった。喧嘩の代わりだとでもいうつもりだろうか。アルコールに蝕まれていて過ちを犯したその男は案の定何も憶えていなかった、のだと思う。臨也は事が起きた日から静雄と一切の関わりを持たなかった。その日の後に会ったのは昨日が初めてだったのだ。何ヶ月ぶりにあったにも関わらず、静雄は変わらず追いかけてきた。本は性に対してノーマルな静雄が、憶えていたのだとしたら気味悪くなって近寄ることすらしない筈だ。それでよかった。臨也だけが知りえる最悪なはずの夜だった。しかし臨也は、それを、何より大切にしていたのだった。




時は過ぎ、新宿某所。


『長年の片想いが実りそうで良かったじゃないか』


パソコンの画面上に九十九屋真一という名前と共に文が現れる。臨也は最後まで読み終わると、露骨に不快そうな表情を浮かべた。キーボードに手を伸ばして軽快に文を構成する。


『意味が分からないな』


パッと画面上に今しがた構成したばかりの文が映る。デスクを爪で叩くと、乾いた音が鳴った。伸びた爪の手入れも最近は疎かになっていたらしい。


『おや、聡明なお前らしくない。お前なら、簡単に実行しそうな事だと思ったんだが』


『話が見えないな。簡潔に話してくれ』


『いや、何だ、認知を迫ればいいだけの話だ。簡単なことだろう?』


爪が割れるほどの圧でデスクに染み込む。最早用は無いとばかりにシャットダウンを選択すると終了画面が浮かんだ。臨也は立ち上がりコートを掴む。
自分の唯一の想いが汚されたような気がした。もう戻れないところまで汚れきってる自分が? 馬鹿らしいと、そう思いつつも、許せなかった。ああ、ねえ俺が君の子を殺せるわけがない。どうしたらいいの、なんて。らしくない事を考えるほど臨也は弱っていなかった。その目はしっかりと前を見据えていたのだ。それなのに。


「…いーざーやー君、よお…!」


叩きつけられるような轟音に全てが掻き消された。決意も、思考も、何もかも全部。いつだって全てを壊して見えなくする静雄が大嫌いで愛していた、おそらくずっと。薄暗さを湛えた瞳を向けても、静雄は微塵も動じなかった。飲み込まれる気がする。


「また会うなんて運がないなぁ。わざわざ俺の家まで、何の用なのさ」


コートに着いた手製の隠しポケットからナイフを取り出した。臨也の瞳と同じ鋭さを湛えたナイフに静雄が眉を顰める。静雄が歩み寄ってくる。それによって空いた静雄とドアのスペースを、臨也は見逃さなかった。一瞬でも隙をつければ抜け出せる、逃げ出せる。そうして二度と会うことがなければ、全てが平穏に終わるのだ。静雄の方に駆け出して、ナイフを振る。わざとらしい大振りで、自ら隙を見せた。さあほら食いつけ。二人の視線が交わる。


「っあ…」


静雄が臨也の身体に腕を回した。拘束された腕ではナイフは振れない。いつものように殴りかかってくれば、逃げ出すことが出来たのに。悔し紛れに睨むと、静雄は何とも形容しがたい表情をしていた。臨也が小さく身体を震わせると、静雄は重い口を開いた。


「何しようとしてたんだよ」


臨也が苦々しい顔をした。


「君には関係ないだろ?」


まだ戻れる、臨也は自分に言い聞かせていた。最悪このまま逃げ出しさえすれば、当初の予定通りこのまま消えてしまえれば、もうなにも恐れることはなくなるのだと。こんなに近くにいるのに、暴力をうけないのは初めてかもしれない。あの夜だって一種の暴力だと、そう考えているから。


「新羅に聞いた」


臨也の瞳から嘲りの色が消えた。硬い音が下から聞こえて、臨也が誤魔化す様に俯くと、そこには先程まで自分の手の中にあったナイフが落ちていた。何を聞いたのか、そんな事は愚問だと分かってしまった。臨也が唇を噛み締める。その瞳の色はいつもより赤く見えた。


「堕ろせって、言いにきたの? 悪いけど君にそんな父親面してほしくないな。君がその事についてここに来てる時点で父親が自分だって認めてるようなものだよ。知ってた?」


嘲笑と共に言葉を吐き出す。意味を伝えるよりも静雄の怒りを掻き立てることが目的だった。腕の力を早く緩めて、逃がしてほしい。それが出来ないなら殴ればいい。この体勢のままが何より痛かった、心が。


「…離してくれないかな」


小さく放った懇願が耳に届いていないのか、静雄の腕の力が強くなる。


「産めよ」


静かに放たれたその言葉を理解するまで、数十秒。は、と頓狂な声を上げて臨也が静雄を見上げた。悪態をついてやろうと思ったのに、その顔があまりに真剣で何も言えなくなってしまった。産めよ、と嘘ではないことを証明するかのように再び吐き出される。


「…何も、覚えてないくせに、父親面ってなんなの」


若干欠けた爪をバーテン服の生地に染み込ませた。瞬間、後ろ髪を引っ張られて、俯いた顔が嫌でも上がった。静雄の顔が再び目に入る。


「忘れてるわけねえだろ? 最初からお前が欲しくてやったのによ。そっから姿を一切見せなくなるってのは一体どういう了見だ? 別に言わなくてもいい。けどよ、もう堕ろすとか言うんじゃねえぞ」


頭を撫でられる。優しい手つきとは裏腹に、今にも捕食されてしまいそうな瞳の強さに震えた。


「お前が好きだ」


それは臨也を何よりも絶望に突き落とす言葉で、何より望んでいた言葉、だったのかもしれない。もう分からなかった。
何もかもを振り払うようにキスをされた。思わず目を瞑り、立てた爪の力を強くする。息苦しさで口を緩く開けると、隙間から舌を差し込まれる。歯列をなぞる様に割られればもう侵入を拒むことは出来なかった。酸欠で臨也の息が少し荒くなったところで唇が離される。銀色の糸に雫が伝う。


「産んでくれるか? 俺の子」


問いかけというよりは決定事項のように聞こえた。臨也が小さく首を縦に振る。微かに赤く染まった耳を見て、静雄がいっそう嬉しそうに臨也を抱きしめた。もしかしたら妊娠するところまで静雄の筋書きだったのかもしれない。それならそれで踊ってやろうじゃないか。もとよりこの身一つで静雄と渡り合ってきたのだ。臨也はバーテン服にうずめた口の端を薄く吊り上げた。






end

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