---------

□7
1ページ/1ページ

湿った風を浴びた。臨也はファーの付いたサマーコートを靡かせながら、人の群れに混じる。七月の蒸した空気は人々を苛立たせているらしい。ざわざわと一つ一つの人間たちの言葉が言葉が臨也の耳の中で纏められ、不協和音になる。その音すら愛おしいというように臨也が一瞬目を閉じ、小さく息を吸い込んだ。酸欠と夏の日差しで眩んだ意識が、不協和音から隔離された声を拾う。


「臨也?」


背後から聞こえたそれに、腕を掴まれる。覚束ない足取りで辛うじてついていくと、そこには知っている顔があった。


「…ドタチン」


驚くでもなく事実を確認するように呟いたその言葉を、肯定するように門田が笑った。逆上せた頭にはその笑顔は妙に懐かしく思えて、臨也は正体不明の切なさを感じた。少し傾いだ身体を受け止めるようにして門田が腕を伸ばす。抱きとめた身体の重量に驚いたようだった。


「かなり痩せたんじゃねえか? ちゃんと飯食べてたのかよ」


臨也は門田の怒ったような、呆れたような表情を見て笑った。彼の世話焼き気質を実感したのは何時ぶりか、と思っていた。門田の腕からすり抜け、門田の目を見る。微かに門田の視線が揺れたのを臨也は見逃さなかった。


「健康管理が甘かったかもね。でも、久しぶりにドタチンに会えて嬉しいな」


文脈の繋がらない言葉を吐きながら、背後の壁に寄りかかった。臨也は建物の影で覆われている。それを見越して門田はこの場所に連れてきたのだろう。


「ああ、俺も嬉しいよ。一年ぶりくらいか」


ストレートに返された言葉に臨也は眩しそうに目を細めた。手持ち無沙汰な指がコートの裾に付いたファーを触った。ここではない場所で着ていた白いコートはもう無い。静雄に全て捨てられてしまったから。
門田は臨也のいない間に起きた事を語った。大きな事柄から些細な事柄まで、さまざまな話を、臨也は御伽噺を待ちわびる子供のような顔で聞いていた。門田は話を聞く臨也の顔が、笑ったり少し切なげに目を伏せたりしているのを、見つめていた。話すことが無くなると、臨也は余韻を楽しむように目を伏せる。門田は、臨也がこの一年近くの間何をしていたのか聞きたかった。
門田が臨也の物語を聞こうとしたその時、臨也の顔が強張った。いつの間にか視線が上がっていたその先を辿る様に、門田が背後を振り返る。瞬間、門田の前を何かが通り過ぎた。門田の動体視力では捕らえられない、恐ろしいスピードで飛んできたそれは、壁にぶつかって轟音を立てた。跳ね返って壁から数メートル離れたところで飛来物が落ちる。門田が視線をやると、そこにはひしゃげたゴミ箱があった。
門田が反射的に臨也の方を振り返る。


「…離して」


押し殺した声で臨也が呟いた。池袋では赤信号より危険な、金と白と黒が突き刺すように門田の視界に入る。静雄に掴まれた臨也の腕が力なく揺れる。


「家から出るなって言っただろ」


「……」


沈黙でもって答えを返す臨也は、先程までとは雰囲気が違う。静雄はギリ、と歯を噛み締め臨也の横の壁を殴った。弾け飛ぶ破片が臨也の頬を掠めても臨也は何も言わない。何かを言いたげな、諦めたような視線に苛立って静雄が叫ぶ。


「さっさと帰れ!!」


突き刺すような怒声が響いて、それから誰一人口を開かなかった。痛みすら感じる静けさだった。体重があるのかどうかすら疑わしくなるような足取りで臨也が静雄の横からすり抜ける。そのまま止まることなく門田の横を抜けた。


「ごめんもう戻るね。バイバイ」


どちらに向けて発したのかは分からなかった。それを言ったとき臨也は静雄と門田の両方に背を向けていたからだ。横切る際に見せた瞳はいやに光が反射していた。門田は暫く呆然と立ち尽くしていたが、我に返ると静雄の方へ歩み寄った。


「…いくらなんでもアレはないだろ。お前だって会うの久しぶりだろ?」


窘める様に門田が言った。先程の静雄の言葉の真意が分からなかったらしい。静雄は標準より背の高い門田よりも身長がある。静雄が見下ろすように門田を睨んだ。冷たい光をたたえた静雄の目は門田の見たことあるものではなかった。


「手前には関係ねえ」


静雄はそれだけ言うとあっさり立ち去った。しかし門田は仰々しい溜め息をつくと壁に背をもたれる。背筋が凍るような視線だった。冷たいと称するに相応しい目だったが、果たしてそれは冷たいだけだったのか。何かが焦げているような目だ、と門田は思った。


静雄に言われるがままに静雄の家に戻った臨也は、部屋の隅で脚を抱えて座っていた。ニューヨークから帰ってきて、もうここから出るな、と言われた。他でもない静雄に。静雄の意図が分からなかった。現実問題そんな事は不可能であるし、日本に帰ってからも情報屋業は続けていたいのだ。事務仕事が多いとはいえ、外に出なくても出来る仕事というわけではないのだ。日々移り変わる情報をその目でしっかりと捉えたい。それが出来なければ情報弱者に成り下がるだけだった。
臨也は一つ溜め息をつくと、晩御飯の用意に取り掛かるために立ち上がった。暑さにやられた身体は未だ立ち直っていないらしく、壁に手をつく。晩御飯の材料を買うのも外に出た目的の一つだった。静雄の買う材料だけでは限界があったからだ。臨也は冷蔵庫の中を見回して再び溜め息をついた。今日は蕎麦にしよう。それなら材料が少なくとも作れるはずだ、と蕎麦の入った袋を手に取った。湯の中を蕎麦が泳ぐ。臨也一人で食べきることが出来ない量の蕎麦を、臨也は菜箸を片手に見つめていた。
電話が鳴る。ちょうど蕎麦を皿に盛り付け冷蔵庫に入れたところだった。


「今から帰る」


自分の名前すら告げない声は、それだけを伝えて電話を切った。名前を告げられずとも臨也はそれが誰であるかを正しく理解していたのだが、あまりに簡潔すぎる、と思った。そんな事を思う自分は少し調子に乗っている、とも。帰ってきてくれるだけでも、嬉しいのだ。臨也はそう思って静かに折り合いを付けた。受話器を置いた臨也の視界が揺れる。

臨也の意識を呼び戻したのは電話のコール音だった。反射的に受話器をとる。どうせ帰れなくなったとか、そんなことだろうな。そう思いながら受話器の先に耳を傾けた。


「やあ。臨也かい?」


「…新羅?」


予期せぬ声が聞こえてきた。確か新羅と話すのも一年ぶりのはずだったが、それを微塵も感じさせぬあまりに普段どおりの話し方だった。表情にこそ出さないが、臨也は一瞬言葉を失うほど驚いていた。


「どうしたんだい? 声がいやに掠れているけど。君は脱水症状とかを引き起こしやすいんだ。水分補給はこまめにね」


まさに先程までその状況に陥っていたために何もいえない。もしかしたら新羅はそこまで見越して話しているのかもしれない。らしくもなく医者らしい事を話しているな、とは思った。久しぶりに声を聞く友人に対して、あまりに日常的な話じゃないか。そう思って臨也は違和感に気付く。


「新羅、お前何で俺がここに居るって知ってる?」


不意に感じた違和感だった。臨也にとってはまったく理解し得ない状況だ。新羅が知ってるはずは無いのだ。平和島静雄と折原臨也は天敵で、それ以外には何も無い。少なくとも静雄と臨也以外にとってはそういう設定のままの筈だ。臨也は静雄と交際していたことを誰にも言わなかったし、静雄に関してはそもそもそんな吐き気がすることを言うはずがなかった。


「情報源は秘密だよ。調べたければ勝手に調べればいいさ」

余裕を持った返しだ。情報屋としては一流のの臨也に対しての秘密とは意味を成さないものだったが、新羅が言うと意味が出来上がるような気がした。蜘蛛の巣状に張り巡らされたネットワークの、一体どこからその隠匿された情報が流出したのだろう。最早その情報源とやらを調べる気も無かったが、少しばかり気にはなった。


「別にいいよ。…何、もう全部知ったんだ?」


電話の先で相手が笑ったような気がした。全てが暴かれていたところでもう気にすることは無い、筈だ。聞いてはみたものの、臨也はもう既に新羅が全て把握していると感付いていた。情報屋として、静雄の天敵として、長年培ってきた勘だった。


「全部かどうかは知らないよ。…ああ、でも君が知らないことは知ってると思う」


不明瞭な答えだ、と臨也は思った。自分の知らないこととは何だ。下らない事なのか、重要な事なのかすらも分からない。もう既に情報弱者に成り下がっていたというのか。臨也が返答を考えあぐねていた、その時だった。
がちゃり。金属が小さくぶつかり合う音をいくつも束ねたような音が鳴る。臨也の心臓が重く跳ねて、指先が冷えた。


「話はまた今度でいい? ちょっと急いでるから切るよ」


簡潔に伝えて身勝手に切る。その時にはもう既に新羅の言葉は臨也の脳から消えていた。玄関の方へ小走りで向かうと、そこには予想通りの顔があった。


「…何してたんだよ」


靴を脱ぎ終えた静雄が低い声で問う。


「電話してたよ。ご飯、出来てるけどいる?」


静雄の質問をさらりと受け流した。臨也にとっては取るに足らないことだったから、普通に返したつもりだったのだが、何故か静雄の眉間に皺が寄った。


「誰からだ?」


「…新羅だけど」


なるほど、静雄は自分と一緒に暮らしていると思われたくないから、電話に出てほしくなかったのだろう。臨也は静雄の機嫌の悪さをそう解釈した。その程度で傷つく心は生憎持ち合わせていない。


「…あいつから変なこと、聞いてないだろうな」


「…? 聞いてない、と思うけど…」


確かに新羅の様子は妙ではあったが、静雄が関係するような事はあまり言ってなかったはずだ。強いて言えば関係がばれていた事くらいか。それとも静雄にとっては最悪に知られたくなかった事なのだろうか。臨也には読めなかった。静雄はそうか、とだけ返して蝶ネクタイを外した。臨也の横を抜けて歩き出した静雄を、臨也は反射的に袖を掴んで引き止めた。静雄が訝しげに臨也を見る。


「あ…、ご飯、いらない?」


妙に間の空いた台詞を、思考の纏まらない頭をよそに吐き出す。静雄は無言だった。臨也にとってはとてつもなく永く思える間が空く。


「…いる」


静雄の言葉を聞くと、臨也は気が抜けたように静雄から手を離す。静雄は振り返らずに風呂場に向かった。先に風呂にはいるつもりらしい。夏場の仕事帰りだから当然だ。風呂場のドアが閉まる音を聞いて、臨也は冷蔵庫で冷やしたままの蕎麦を取り出す事にした。

ずる、と蕎麦をすする音が響く。日本に帰ってから静雄と向かい合って食事をする機会が増えた。しかしそこに大した会話は無く、二人してただ黙々と食を進めるだけだった。時折ちらりと臨也は静雄を見るが、静雄は変わらず食事を取っていた。


「ごちそうさま」


臨也が食器を手に立ち上がる。食が細い臨也は夏になると尚更食欲が減るのだ。食器がぶつかり合う音が台所に響いた。冷蔵庫から麦茶を取り出し水分を補給していると、静雄が食器を手に歩いてきた。臨也の食べた量の五倍はあった蕎麦を短時間でたいらげたらしい。


「…ごちそうさま」


静雄が片手に持っていた食器を受け取った。大きなタライに入った食器を、泡に塗れたスポンジで磨く。微かにインナーが張り付く感触に気付いて、臨也はこれが終わったらシャワーを浴びよう、と思った。




end

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ