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□怖がりの無神論者
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煙草の灰が落ちる。静雄は短くなった吸殻を灰皿に押し付けると、傍らにある黒い頭を見やった。それの視線の先は鈍く燻っている吸殻の先に向けられている。静雄が肺に残った最後の紫煙を天井に向けて吐き出すと、臨也が黒い髪を微かに揺らした。戯れにつけたテレビはくだらない番組しかなくてすぐに消した。沈黙だけが残る薄暗い部屋を、気まずいとは思わなかった。
光の加減で赤く見える瞳が静雄を捕らえる。ついさっきまで煙草を摘んでいた静雄の指先が微かに跳ねた。そうして数秒の間見つめ合って、おもむろに臨也が口を開く。


「ねえ、シズちゃんは死後の世界ってどう思う?」


脈絡の無い質問に戸惑う。畳に置いてあった手に、冷たい感触が触れた。空調の無い静雄の部屋は三十度を超えていてもおかしくないというのに、臨也の手は冷たかった。静雄の手に触れているのと反対の手が片隅にあった扇風機に伸びる。暑いなら長袖なんて着なければいい、という静雄の考えは扇風機の羽根が回る音に掻き消された。


「俺はさ、死後の世界とかあまり信じてないんだ。…でも、死後の世界があったならきっと君はヴァルハラに行くんだろうね」


訳の分からない長台詞を扇風機の風に当たりながら話していた。三枚の羽が高速回転で円状になっているのを見つめてるらしい。首筋に当たる黒髪がむず痒かった。静雄にヴァルハラなんて言葉が分かるわけもない。それを知っていて敢えて臨也は話をしているのかと思うと腹が立った。これではまるで独り言だ。


「死後の世界があるならお前は地獄に行くんじゃねえの?」


反応を見るように小さく呟いた。扇風機から視線を外したその顔がゆっくりとこちらに向くのを見ていた。臨也は笑ってた。


「地獄っていうのが汚い人間の行き先なら、そうだね、俺は行くかもしれない」


重そうな睫毛が下向きに動いた。密度の濃い長い睫毛が赤い瞳を覆う。薄明かりに浮かんだ肌は透けるように白かった。扇風機から送られる生暖かい風が二人を包んだ。


「ねえ、考えてみてよ。君の周りにいる人で、地獄に行きそうな奴はいるかい? …新羅あたりは怪しいけど、あいつはあいつなりに信念があるから、きっと地獄には落ちれない」


愛おしそうに言葉を紡ぐ。その無駄な進化を遂げた頭の中で考えているのは誰だ、と問い質したくなる。


「お前に信念は無いのかよ」


「無いよ?」


考える間もなく放たれた言葉から、静雄は臨也がそう聞かれることを予想していたのだと分かった。全てを見透かしたような瞳が、誰かに何かを悟らせることは無い。


「ねえ、君の覚えている人間の中で俺だけが地獄に行くよ。地獄があるならね」


「…俺も真っ当な生き方をしてるわけじゃねえんだ。だったら俺も、」


「違うよ」


返答を待たずして吐き出される言葉は酷く冷たい。生温い空気の中を氷の刃が刺し開いた。


「ちがう、違うんだよシズちゃん。いくら俺が君に何をしたって、いくら君が自分を責めたって、君の魂はいつだって綺麗なままだ」


縋るようにシャツを掴んだ臨也の手を掴もうとしたけれど、それは適わなかった。あっけなく振り払われてしまった。救いの蜘蛛の糸まで掴まないなら臨也はどうやって生きていくのだろう。誰も知らない臨也がここにいた。


「死後の世界があるとしたら、君と俺が一緒に居るこの時間なんて酷くちっぽけなものなんだ。…分かるだろ?」


高説振りまいて勝手に考え込んでいる臨也をどうしてしまおうか、と思うばかりで動けない。再び縋るように静雄の腕を握る手を、振り払われたくないから放置した。肩に服越しに触れた吐息は妙に熱くて、苦しそうだった。


「ちっぽけでいいから君と一緒にいたかったんだ、ごめ、」


胸糞悪いことを言い出しそうな口を塞いだ。縋りつくように握ってくる手を、振り払われたくないから握り返した。静雄の体温を受け取ったその手は微かに暖かい。
一体臨也は何を考え込んでいるのだろう。俺たちは今確かにここにいるというのに。








end

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